トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第150号 


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KIさんの鎌倉リポート No.150(2009年3月12日)


No.149
No.151



鶴岡八幡宮のルーツを旅して(最終回)〜時を越えて連なる譜系

弥生の候 咲くや清ら花 鶴岡八幡宮

KIです。

この3月にはいって最初の土曜日,鶴岡八幡宮に参詣しました。薄曇りの境内では,銀杏と並んで名物の河津桜はもう見ごろを終えつつありましたが,今度は,乙女椿や馬酔木(あしび)など時節の花が見ごろを迎えていました。
 
境内を飾る花のスナップを以下に少しご紹介いたしましょう。






【3月,乙女椿咲く舞殿】



【3月,たわわに実るあしびの花とともに】


【あしび咲く宇佐神宮遥拝式の朝(2008年3月18日撮影)】

社務所の手前を飾るのが,上の2枚の馬酔木(あしび)の花。今年はどの花も全般的に開花が例年よりやや早かったためか,先週末(2009年3月7日)に訪れたときにはもう見ごろを迎えていました。なお,写真は昨年,鶴岡八幡宮さんから使用許可を得たものを代わりに掲載します。

あしびの清(ちゅ)らさや

こぼれるようにたわわに実る丸い馬酔木の花。朝の薄日に真珠のように際立っていました。
 そして,あともう数日もすれば鶴岡八幡宮では宇佐神宮遥拝式の行列が馬酔木が実るこの一角から出立するのです(毎年3月18日,午前10時)。

さて,『鶴岡八幡宮のルーツを旅して』シリーズ,初回〜14回にかけて鶴岡八幡宮ゆかりの神社をいろいろとレポートしてきましたが,この最終回では宇佐神宮に始まる鶴岡八幡宮の譜系を総括してみましょう。


連なる譜系1〜鶴岡八幡宮の本神霊(もとつみたま)



【大分,宇佐神宮の御朱印】


【宇佐神宮の本殿(上宮本殿)にて】

鶴岡八幡宮の大元にあたるのが大分県の宇佐神宮。鶴岡八幡のみならず,全国4万余り存在する八幡宮・八幡神社の総本宮なのです。以下に宇佐神宮の御祭神と由来をご紹介します。

(御祭神)
・八幡大神(応神天皇)
・神功皇后
・比売大神(宗像三女神)

(由来・歴史)
・4世紀前半ごろ,ホムタワケノミコト(のちの応神天皇)が北九州で誕生。なお当時,宇佐は宗像三女神を祀る聖地であり大陸の先進文化の保有地だった。
・4世紀末ごろ,応神天皇が河内の王宮で崩御。
・571年,応神天皇の御霊が宇佐に降臨。以後,八幡大神として日本(倭国)を鎮護する(→これが宇佐八幡のそもそもの始まり)
・725年,宇佐の八幡大神(応神天皇の神霊)のために新たに神殿を造営。日本最初の八幡宮として発足(→これをもって正式な宇佐神宮の創建)
・731年,二の御殿を建てて,宗像三女神を併せ祭る。
・823年,三の御殿を建てて,神功皇后を併せ祭る。

・・・以上が御祭神と由来歴史の抜粋です。今では応神天皇の一の御殿,宗像三女神の二の御殿,神功皇后の三の御殿から成る本殿は大変壮麗なものでして(右写真),まさに全国の八幡宮の筆頭にふさわしい規模と威容を誇っています。

(詳しい参照先)
・KIの鎌倉レポート No.87(2008年4月30日)「鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その10)〜ついに宇佐神宮へ」
・KIの鎌倉レポート No.88(2008年5月9日)「鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その11)〜宇佐神宮の桜花祭にて」

 そして,宇佐神宮に祀られている応神天皇(八幡大神)・宗像三女神・神功皇后の三柱の御分霊を京都に勧請して出来たのが,八幡第二の宗廟,石清水八幡宮です。



【京都,石清水八幡宮の御朱印】


【石清水八幡宮本殿前での湯立神事(2009年2月1日)】

八幡第二の宗廟,石清水八幡宮は西暦859年に奈良の僧,行教律師が宇佐八幡の分霊を男山に祭って発足しました。行教律師が宇佐神宮に参篭し,八幡大神から平安京に程近い男山にて国家鎮護したいとの御託宣を受けたと石清水八幡宮の縁起は伝えています。律師は同年,男山に宇佐八幡の御分霊を勧請し,翌年には朝廷(清和天皇)が社殿を造営したとのことです。
 やがて西暦900年代に入って間もなく,唐風文化と律令制という形で集大成された古代が終わり,中世のはじまりを迎えた平安京では,後に武家政権を樹立する軍事貴族が跋扈し始め,地方でも彼らの蹄の音がしばしば高く響くご時勢となります。そして,八幡大神は軍神として,軍事貴族層から絶大な信仰を受けるようになり,八幡信仰の歴史は大きく展開していくことになります。
 以下に,11世紀以降の石清水八幡宮(あるいは八幡大神)と軍事貴族の名門,清和源氏の関連をまとめてみましょう。

(八幡と清和源氏の関連史)
・1046年,源頼信(河内源氏の初代元帥)が八幡大神を氏祖として崇める告文を奉納。
・1046年,源義家(源頼信の孫,源頼義の子)が石清水八幡宮で元服。八幡太郎と称す。
・1063年,源頼義(2代元帥)が石清水八幡の分霊を関東各地に勧請し,多くの八幡宮を創建する。(→そのひとつが鎌倉の由比若宮,すなわち鶴岡八幡宮の前身)

(源頼義が石清水八幡の分霊をもとに創建した八幡宮)
飯野八幡宮(1063年創建。福島県いわき市),六郷神社(1063年創建。東京都大田区),大宮八幡宮(1063年創建。東京都杉並区),鶴岡八幡宮(1063年創建。鎌倉市),富塚八幡宮(1071年創建。横浜市戸塚),壷井八幡宮(1064年創建。大阪府羽曳野市)

(詳しい参照先)
・KIの鎌倉レポート No.32(2007年1月17日)「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」

1063年以降,関東から奥州にまで覇権を樹立した河内源氏の2代元帥,源頼義によって東国各地に八幡神をまつる祠が次々に築かれました。そしてその多くは現在でも八幡宮として存続しており,鎌倉の鶴岡八幡宮もこうして出来上がった神社なのです。
 さてお次は,1063年に鎌倉由比に創建された鶴岡八幡宮のその後を概観しましょう。



【鶴岡八幡宮の御朱印とミニ破魔矢】


【鶴岡八幡宮,朝の手水舎】

1063年,源頼義が石清水八幡を勧請し東国一帯にあまた建立した神社の一つに過ぎなかった鎌倉の由比若宮(鶴岡八幡宮)は,その後,源頼朝が鎌倉幕府を開府したことで大きく発展していきます。旧暦の1180年10月7日,頼朝公が鎌倉に入ったとき,実は由比若宮は荒れ放題になっていたそうです。5代前の祖先である源頼義が建立し,その子,源義家も源氏の氏神として整備したという祠も,平家の天下になったこともあって有力な管理者がいなくなっていたのでしょう。
 鎌倉入りした頼朝公はすぐさま鶴岡八幡を由比郷(現,材木座5丁目)から現在の社地である小林郷北山(現,雪ノ下2丁目)に移し,社殿を建てて手厚く祭りました。鎌倉入りしてから5日後のことでした。しかしながら,その社殿も1191年の火災で焼失してしまいます。この頃,自身を頂点とする武家政権システムを既に確立していた源頼朝は以前にも増して壮麗な社殿を再建し,改めて京都の石清水八幡宮から神霊を勧請しました。上宮と下宮から成り立った,現在見られる様式になったのはこのときからです。
 その後,鶴岡八幡宮は武家の守り神として,清和源氏の後継者を称する足利氏や徳川氏をはじめ多くの武家から崇拝されていきます。こと,関東の地に再び居城を構えた徳川将軍家のバックアップは大きく,社殿が新装されただけではなく六角堂をはじめ現在は見られなくなった仏堂・仏殿が相当数建立されたそうです。現在,長い石段の上に鎮座する朱色の本殿(上宮)は,1828年に徳川家斉が修築させたものだそうです。
 そして現在,鶴岡八幡宮は日本三大八幡宮にも数えられる大きな存在です。その後の寄与も大きかったことは事実ですが,鶴岡八幡宮が宇佐神宮・石清水八幡宮・箱崎宮と肩を並べる存在にまでなったのはやはり源頼朝によるところが一番大きいのではないでしょうか。

もし頼朝が鎌倉に入らなかったら,もし鎌倉幕府が開かれなかったら・・・

鶴岡八幡宮は今のような知名度のある大きな神社にはならなかったでしょうし,日本有数の観光都市「古都鎌倉」もきっと存在し得なかったでしょう。

さて,これで終わりではありません。ここまでは,宇佐神宮→石清水八幡宮→鶴岡八幡宮へと至る道筋を概観してまいりましたが,お次は章を改めて鶴岡八幡宮から先へと続く系統をひとつご紹介します。

連なる譜系2〜鶴岡八幡宮の末神霊(すえつみたま)



【金沢の富岡八幡宮,御朱印(左)と本殿(右)】



【深川の富岡八幡宮,御朱印(左)と本殿(右)】
さて,前回レポートNo.149「鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その14)〜金沢の八幡様に伝わる鎌倉神楽」で詳しく扱った横浜金沢の富岡八幡宮です。

(横浜金沢の富岡八幡宮)
 はじめはエビス様(蛭子神)のみを祀っていたところに,1227年,鶴岡八幡宮から八幡大神を勧請・合祀して八幡宮となったことは前回で詳しく述べたとおりです。
 エビス様とともに鎌倉幕府の鬼門を守った八幡大神がその神威を発揮したのは1311年(応長元年)の大津波のとき。金沢一帯の集落が次々に水没する中,富岡の集落だけはこの富岡八幡の小山が津波の行く手を阻んだので,水没を免れたのだそうです。以後,「波除八幡(なみよけはちまん)」として厚い崇敬を集め,やがて時代が下った江戸時代初期,金沢の富岡八幡から新たな八幡宮の創建へとつながっていきました。

(江戸深川の富岡八幡宮)
それが,東京深川にある富岡八幡宮。鳳凰の神輿行列が出る深川祭で有名なこの八幡宮は1627年の創建。江戸幕府3代将軍,徳川家光の頃,永代島と呼ばれたこの地域一帯の埋め立て工事の成就を祈願して,「波除八幡」こと金沢の富岡八幡を勧請して建立されたのが始まりです。
 社格としては鶴岡八幡宮から数えて3分霊で,宇佐神宮からだと5分霊目の神様。また,鶴岡八幡宮から勧請された八幡宮は日本全国にかなり多数あるので,八幡宮としては歴史の浅い神社なのですが,江戸幕府のお膝元とあって徳川将軍家から格別に優遇されたこと,また明治維新後は天皇のお膝元として准勅幣社とされたことが幸いし,関東では知名度もあり,規模の大きな神社として今に至っている次第です。
 以上,鶴岡八幡宮→富岡八幡宮(金沢)→富岡八幡宮(深川)へと至る道筋です。なお,今回ご紹介したのは鶴岡八幡宮から勧請された一例です。調べれば,鶴岡八幡から分霊された神社の系統例が他にも出てくるでしょうね。 

いにしえより倭王の御霊を連綿と・・・



【応神天皇陵とその御陵印(右上)】※御陵の写真はHP「星のまち交野」様よりの借用です。


前章までは,鎌倉の鶴岡八幡宮にへと至る八幡宮の歴史,さらに鶴岡八幡宮から流れ出る歴史を,各神社とともにご紹介してきましたが,八幡信仰の大元である八幡大神,すなわち応神天皇から始まり,深川の富岡八幡宮に至る道筋をまとめると以下のとおりです。

応神天皇(4世紀後半の倭王)
  
@宇佐神宮(571年,八幡大神降臨。725年,創建)
  
A石清水八幡宮(859年,宇佐八幡を分霊勧請)
  
B鶴岡八幡宮(1063年,石清水八幡を分霊勧請。1191年,鎌倉の武家政権鎮護のため再度,石清水八幡を分霊勧請)
  
C富岡八幡宮(1227年,鶴岡八幡を分霊勧請)
  
D深川の富岡八幡宮(1627年,金沢の富岡八幡を分霊勧請)
 
これを日本地図上で示したものが左の地図です。なお,応神天皇(ホムタワケ大王)が日本(倭国)の建国史上,大変重要な役割を果たした大王(おおきみ)だったらしいことは以前の下記レポートで詳しく述べました。
・KIの鎌倉レポート No.65(2007年10月12日)「鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その6)〜応神天皇」
・KIの鎌倉レポート No.90(2008年5月27日)「鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その12)〜宇佐から宇美へ」

以上,『鶴岡八幡宮のルーツを旅して』シリーズ最終回として各神社&御陵でいただいた御朱印とともに,古墳時代の応神天皇から江戸初期の富岡八幡宮に至るまで1300年あまりの八幡信仰の譜系をひとつ概観しました。
 今回,ご紹介した八幡宮の譜系は,江戸の富岡八幡宮が末ですが,未来にはさらにここから連なる新たな八幡宮が誕生するかもしれないですね。

2007年1月14日の初回に始まった『鶴岡八幡宮のルーツを旅して』のシリーズですが,2年以上の長きにわたってお付き合いくださって,大変ありがとうございました。
                  2009年3月13日 KI




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