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KIさんの鎌倉リポート No.56(2007年7月21日)


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いざ,鎌倉!(その1)〜塩田から碓氷峠へ



信州塩田から鎌倉までの鎌倉街道の推定経路(灰色の線)と本レポート第56号の行程(赤色の線)
かつて鎌倉街道が上田市塩田から延々と鎌倉市の鶴岡八幡宮まで伸びていました。一度旅してみたいと思っていたのいで,まとまった休暇を利用して,この7月はじめ,別所温泉&塩田平から鎌倉まで数日にわたって旅行脚しました。
 鎌倉街道は鎌倉往還とか鎌倉道などとも呼ばれ,武家の都,鎌倉と周辺各地を結ぶ街道が複数存在していました。信濃方面へ通じる上道,越後方面の中道,奥州方面の下道,そして海沿いに京(平安京)へと向かう街道もありました。
 鎌倉時代の二大国都を結ぶ京への街道以外では,歴史上もっとも重要なのが信濃と鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道でした。
 鎌倉時代を通じて,信濃と上道沿道は北条執権家の強い影響下にありました。新田義貞が鎌倉幕府を討滅する際,進軍したのも鎌倉街道上道。そして,新田進軍の急報に接して信濃守護の北条国時・俊時の父子が鎌倉救援に駆け抜けたのも上道でした。
 北条国時と俊時の足跡を辿りつつ旅した鎌倉街道上道を今回から数回レポートしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

まず今回は,長野県の別所・塩田から碓氷峠までをお送りいたします。

7月1日,塩田平の西端に位置する別所温泉。

このあたりでは平安時代の初めから仏教寺院が創建され,鎌倉時代には塩田北条氏の下で大変に繁栄したことは昨年11月のレポートで詳しく紹介したとおりです(レポートNo.26参照)。
 
8ヶ月ぶりの別所温泉,北向観音堂ではアジサイの花がようやく色づき始めているところでした。

新田義貞が上州で討幕の兵を挙げた旧暦5月8日は今でいえば6月末にあたります。少し遅れて北条国時・俊時が一族郎党ともども信濃を出陣したのはちょうど今頃くらいの季節なのです。


7月初旬,北向観音のアジサイはまだこれからという感じでした

鎌倉時代にアジサイがあったのかどうかは知りませんが,もしあったのならヤマアジサイの花が塩田城あたりにも咲いていたかもしれませんね。
 1333年初夏,老境に達していた北条国時は出家して塩田入道と名乗っていました。晩年になって出陣することが多かった国時ですが,ほころび始めたアジサイを愛でながら,かりそめの間を過ごしたのでしょうか。
 そして間もなく,「新田義貞,大軍で鎌倉街道を南下」の急報がもたらされます。
 1281年,父義政の死によって塩田北条家の家督を継いで50年余,信濃守護として「信州の学海」と呼ばれるまでに,この塩田に仏教文化の一大中心地を築き上げました。人生そのものが刻印された塩田の地に二度と戻らない覚悟で,形見に自身の姿を木彫りしたというのが写真の木像です。
 悟りの境地に達したかのように静かに目を閉じた表情が印象的です。


                  ※常楽寺寺務所の承認を得てHPより転載
                  常楽寺HP:https://www.jorakuji.jp/index.html


常楽寺宝物館所蔵の北条国時像。出陣前に国時自ら自分の姿を刻んだものといわれています(※)



生島足島神社の大鳥居の向こうに広がる砂原峠の山々(上田電鉄下之郷駅より徒歩40分ほど)
「いざ,鎌倉へ!」

城に集う郎党たちを前に果たしてそう叫んだのかどうかはわかりませんが,梅雨明けやらぬ時節,北条国時は嫡子の北条俊時らとともに塩田城を出立しました。
 そして山すそをぬうように,塩田平から砂原峠,依田,佐久平を経て碓氷峠を目指したのです。

ところで現代の信濃を旅する自分ですが,塩田城跡のヤマアジサイを鑑賞し,昼過ぎに上田電鉄に乗りました。下之郷駅で途中下車し,北条国時も厚く崇敬したという生島足島神社(式内大社)に寄り道,田園にそびえる巨大な一の鳥居から,鎌倉街道が通じていた丸子,砂原峠方面の山麓が見渡しました。そして,JR上田駅から,信濃電鉄で碓氷峠のある軽井沢を目指しました。
 現在は上田電鉄と信濃電鉄が別所温泉と軽井沢(碓氷峠)を繋いでいますが,北条国時らの頃の鎌倉街道は,自分が乗った鉄道路線よりも大きく南よりに蛇行していたようです。
 信濃電鉄でもまた途中下車。小諸駅付近で信州そばの昼食をとって午後2時前,軽井沢駅に到着しました。

軽井沢から,シャトルバスで碓氷峠へ。にぎわうリゾートエリアを通り過ぎると急峻な山道をひたすら上り詰めます。
 そして標高1200メートルの頂上に至ると,そこにはヤマトタケルノミコトが東征中に創建したと伝わる熊野皇大神の祠が聳えています。ついでに寒いです(^^;)。駅前との標高差は実に500メートル,あたり一面が神々しいばかりの霧に覆われています。
 県境の碓氷峠は鎌倉街道一の難所。今は長野県側の軽井沢と群馬県側の横川を路線バスが繋いでいますが,車窓から次々に見える山の景色の険しいこと。

ここで話をまた674年前に戻しましょう。信濃の街道を馬で駆けつけてきた北条国時とその一族郎党たち。ここまでと峠を下った先は馬でまっしぐらに駆け抜けることもできたでしょうが,何せ平地と千メートルほどの落差がある崖ですから「まっしぐらに」というわけにはいきません。しかも上古の昔,ヤマトタケルも道に迷ったというほどの霧の名所でもあります。

「なむ熊野皇大神,霧を払い給え,一刻も早く大師(北条高時のこと)のもとに馳せ参じさせ給え」

 いらだつ気持ちを抑えながら,北条国時の一行もこの峠を越えたのかもしれませんね。



霧深い碓氷峠の熊野皇大神(熊野神社)は長野と群馬のちょうど県境に鎮座しています



碓氷峠のふもとにある鉄道文化村では昔懐かしい(中には全然知らないものも)電車の面々が・・・
峠を越え切ると,出ると頂上での寒さと霧がウソのような群馬県横川の集落に至ります。

古代から江戸時代まで峠の要所として関所があったというこの地には,今は鉄道文化村があります。鉄道ファン(自分は違いますが)にとってはきっとメッカ的存在なのでしょうね。

自分がここに到着したのは午後4時。峠名物のトロッコ電車は夜まで出ないので,「とうげの湯」駅まで路線沿いの遊歩道を歩いて向かいました。
 そして一風呂浴びて午後6時,下りのトロッコ電車に揺られて(夕風が気持ちいいですね〜),横川駅前(JR信越線)まで戻ってまいりました。


「いざ,鎌倉!!」

674年前,峠を降り立った国時一行もここから再び馬に乗り換えて上毛の地を鎌倉へとまっしぐらに駆け抜けていったのでしょうね。

信州塩田からこの碓氷峠まで約70キロあまり。物見胡散&寄り道しながらの自分はこの距離を丸1日かかって行脚したけれど,馬を鞭打ち暇を惜しんで駆け続けていただろう国時一行であれば半日くらいで碓氷峠に至ったのではないでしょうか。

夜7時,JR横川駅から電車に乗り込んだ自分もまた,

「いざ,高崎」

もちろん最終目的地は自分も鎌倉なのですが,今宵は高崎の宿泊地へと急ぎました。




(追伸)
次回は,いざ鎌倉(その2)。鎌倉街道を群馬高崎から埼玉毛呂山までをレポートする予定です。

また,前回55号レポートで注釈抜けと誤りがありましたので下記のように追記訂正しておきます。すみませんでした。
 *1棚機女(たなばたつめ):盂蘭盆に神女が水辺で機織しながら神の降臨と地域の安寧を祈願したという古墳時代の日本にあった風習。
 *2乞巧奠(きっこうでん):楽器や筆硯,糸枠などを屋内に飾って技芸の上達を祈願したという牽牛織姫伝説に基づいた大陸起源の行事。

 (訂正)2番目写真の説明に「柏の札」とありますが正しくは「梶の札」ですので訂正します。


夕刻,横川駅で「峠の釜飯」を買って信越線で高崎へ


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