鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第64号(2007年10月2日)
ヒガンバナ紀行~塩田平&鎌倉
去る夏,信州から鎌倉までの鎌倉街道を旅しました。
今,9月になって,街道の旅のスタートを切った塩田あたりはどんなふうになっているかなと気になったので,「信州の鎌倉」こと塩田平を再び訪れました。
今回,中秋近づく信州塩田と湘南鎌倉の様子を,季節の花にスポットを当てながらレポートしたいと思います。
いずれも,ちょうどヒガンバナが見ごろでした。
今,9月になって,街道の旅のスタートを切った塩田あたりはどんなふうになっているかなと気になったので,「信州の鎌倉」こと塩田平を再び訪れました。
今回,中秋近づく信州塩田と湘南鎌倉の様子を,季節の花にスポットを当てながらレポートしたいと思います。
いずれも,ちょうどヒガンバナが見ごろでした。
【塩田平,龍光院のヒガンバナ】
7月初旬に,このお寺のそばにある塩田城跡(塩田北条氏の居城跡)を散策した時には青白いヤマアジサイが咲き始めていましたが,3ヶ月近く経た今は真っ赤なヒガンバナが晩緑の塩田平を飾ります。
塩田平には,前山寺・龍光院・中禅寺の3つの大きな寺院がありますが,中でも龍光院にはヒガンバナが多く咲いていました。
ここには,北条義政・国時・俊時の塩田北条3代の菩提があります。
お彼岸とあって,北条氏の家紋「三つウロコ」が屋根に刻まれた本堂を,僧侶の方々が忙しそうに出入りしていました。
7月初旬に,このお寺のそばにある塩田城跡(塩田北条氏の居城跡)を散策した時には青白いヤマアジサイが咲き始めていましたが,3ヶ月近く経た今は真っ赤なヒガンバナが晩緑の塩田平を飾ります。
塩田平には,前山寺・龍光院・中禅寺の3つの大きな寺院がありますが,中でも龍光院にはヒガンバナが多く咲いていました。
ここには,北条義政・国時・俊時の塩田北条3代の菩提があります。
お彼岸とあって,北条氏の家紋「三つウロコ」が屋根に刻まれた本堂を,僧侶の方々が忙しそうに出入りしていました。
龍光院は,1282年に北条国時が父の北条義政の菩提を弔うために建立しました。このとき,まだ家督を継いだばかりの青年当主でした。老境の北条国時が息子の北条俊時ともども鎌倉の東勝寺で自害したのはこの51年後のことです。
この近くの塩田城跡には鎌倉で死んだはずの北条国時の墓がひっそりと佇んでいます。また,北条義政のお墓が龍光院の墓地にあることは,写真とともにレポートNo.25(2006年11月)に述べたとおりです。
里山に赤いヒガンバナが秋風に揺れます。
緑深い木々の中には,先端が少し色づき始めているものも散見され,あと1ヶ月もすれば,カラマツやブナなど見事な黄葉に包まれることでしょう。
正午をまわるころ,涼風爽やかな塩田平を後にしました。
この近くの塩田城跡には鎌倉で死んだはずの北条国時の墓がひっそりと佇んでいます。また,北条義政のお墓が龍光院の墓地にあることは,写真とともにレポートNo.25(2006年11月)に述べたとおりです。
里山に赤いヒガンバナが秋風に揺れます。
緑深い木々の中には,先端が少し色づき始めているものも散見され,あと1ヶ月もすれば,カラマツやブナなど見事な黄葉に包まれることでしょう。
正午をまわるころ,涼風爽やかな塩田平を後にしました。
【鎌倉,宝戒寺・東勝寺跡のヒガンバナ】
ところ変わって,お次は,夕刻の鎌倉。夕日が差し込む宝戒寺を訪れました。
こちらのお寺は北条得宗家の菩提寺。1335年に北条一門を弔うために後醍醐天皇の発願で建てられました。
こちらのお寺も七夕祭りの時期以来,自分にとってはほぼ3ヶ月ぶりの参拝です。
緑深かった境内は色とりどりの季節の花が見ごろでした。中でも目立つのは白いヒガンバナ。かつて北条得宗家の屋敷があった境内を白萩とともに純白に彩りますね。
そして,3ヶ月前と同様に宝戒寺から東勝寺跡・北条高時腹切りやぐらを目指しました。
ところ変わって,お次は,夕刻の鎌倉。夕日が差し込む宝戒寺を訪れました。
こちらのお寺は北条得宗家の菩提寺。1335年に北条一門を弔うために後醍醐天皇の発願で建てられました。
こちらのお寺も七夕祭りの時期以来,自分にとってはほぼ3ヶ月ぶりの参拝です。
緑深かった境内は色とりどりの季節の花が見ごろでした。中でも目立つのは白いヒガンバナ。かつて北条得宗家の屋敷があった境内を白萩とともに純白に彩りますね。
そして,3ヶ月前と同様に宝戒寺から東勝寺跡・北条高時腹切りやぐらを目指しました。
北条高時腹切りやぐらの入口はいつもぬかるんでいるという噂を耳にしますが,この日は地面が干上がっていました。
新田義貞に追い詰められた北条一門がここで次々に自害したことは,レポート No.55(2007年7月12日)で紹介したとおりです。
龍光院に菩提がある塩田北条氏の北条国時・俊時父子が死んだのも,かつて東勝寺があったこの地。でも,前記のように北条国時の墓(供養塔)は塩田にあるのです。
鎌倉合戦の後,遺骨が鎌倉から塩田に移されたかどうかは全くわからないけど,その可能性は十分あります。北条一門と鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞ですが,戦いが終わると敗れた側にも寛大だったそうなので,生き残った家臣か縁者が遺骨を信濃に持ち帰ったかもしれないですね。
新田義貞に追い詰められた北条一門がここで次々に自害したことは,レポート No.55(2007年7月12日)で紹介したとおりです。
龍光院に菩提がある塩田北条氏の北条国時・俊時父子が死んだのも,かつて東勝寺があったこの地。でも,前記のように北条国時の墓(供養塔)は塩田にあるのです。
鎌倉合戦の後,遺骨が鎌倉から塩田に移されたかどうかは全くわからないけど,その可能性は十分あります。北条一門と鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞ですが,戦いが終わると敗れた側にも寛大だったそうなので,生き残った家臣か縁者が遺骨を信濃に持ち帰ったかもしれないですね。
東勝寺跡地にもヒガンバナは咲いていましたが,心なしかその数は大変少なかったです。このあたりは坂道の宅地なので単に植生に向いていないからなのでしょう。
以前のレポートで東勝寺跡地あたりのことを「時が流れているとはいえ,多くの人々が絶望と恐怖にさいなまれながら死んだ場所」と書いたのですが,死んだ人たちの魂はこんなところにいつまでも留まっていなかもしれない(否,留まっていないでほしい)とも思います。
死に場所は確かにここ東勝寺跡だけど,得宗一家は宝戒寺あたりに,塩田の北条一家は信州へというふうに,北条一門の人達は案外それぞれにお気に入りの場所へと帰って楽しく死後を過ごしているのかもしれない。
終焉の地に意外と少ないヒガンバナを眺めつつそう思いました。
以前のレポートで東勝寺跡地あたりのことを「時が流れているとはいえ,多くの人々が絶望と恐怖にさいなまれながら死んだ場所」と書いたのですが,死んだ人たちの魂はこんなところにいつまでも留まっていなかもしれない(否,留まっていないでほしい)とも思います。
死に場所は確かにここ東勝寺跡だけど,得宗一家は宝戒寺あたりに,塩田の北条一家は信州へというふうに,北条一門の人達は案外それぞれにお気に入りの場所へと帰って楽しく死後を過ごしているのかもしれない。
終焉の地に意外と少ないヒガンバナを眺めつつそう思いました。
【中秋の黄昏時に,鶴岡八幡宮】
夏のころと違って最近は午後5時をまわると,もうあたりが暗くなりますね。
この日も暗くなる頃合に鶴岡八幡宮へとゴールイン。
暗闇の中,かがり火に赤く浮き上がる舞殿はホント幻想的。やはり,旅の終わりにこういう光景を見られると良いですね。
東勝寺で死んだ北条の人達も生前のわだかまりをすっかり忘れ去って,好きな場所を自由に行き来しているといいですね。
夏の鎌倉街道の旅に続いて,信州と鎌倉に北条一族が眠る地を訪ねたお彼岸の旅。その旅の終わりに,舞殿を眺めながらそう思った夜でした。
夏のころと違って最近は午後5時をまわると,もうあたりが暗くなりますね。
この日も暗くなる頃合に鶴岡八幡宮へとゴールイン。
暗闇の中,かがり火に赤く浮き上がる舞殿はホント幻想的。やはり,旅の終わりにこういう光景を見られると良いですね。
東勝寺で死んだ北条の人達も生前のわだかまりをすっかり忘れ去って,好きな場所を自由に行き来しているといいですね。
夏の鎌倉街道の旅に続いて,信州と鎌倉に北条一族が眠る地を訪ねたお彼岸の旅。その旅の終わりに,舞殿を眺めながらそう思った夜でした。