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KIさんの鎌倉リポート No.65(2007年10月12日)


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鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その6)〜応神天皇

「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズも6回目。今回は鶴岡八幡宮の主祭神である八幡大神こと応神天皇についてお話しようと思います。なお,八幡宮では応神天皇を単独で祭っているわけではなく神宮皇后や比売大神等も一緒に祭っているのですが,今回は主祭神の応神天皇に絞って話をしたいと思います。
 記紀で第15代天皇とされている応神天皇は4世紀後半に実在したヤマト政権の大王(おおきみ)だと考えられています。この大王は,当時海に近かった河内平野にヤマト政権の本拠を移しました。大陸との交流をさかんにし倭国に大きな転機をもたらしたキーパーソンでもありました。
 主に河内に王宮が営まれた応神天皇から第25代武烈天皇(6世紀初め)までを「河内王朝」といいます。

今年になって既に何度か訪れているのですが,9月中旬にも,応神天皇陵と河内王朝の痕跡など訪ねて,大阪府の藤井寺・羽曳野あたりを旅しました。


応神天皇の陵墓とされる恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)〜HP「星のまち交野」様よりの借用写真(※註)


近鉄,土師ノ里駅のすごそばには,天皇陵をはじめ大小様々な古墳や埴輪焼窯跡が点在しています。また,古墳時代あるいはそれ以前に起源がさかのぼる古社があちこちにあり,今は宅地とビルがひしめくこの地域が,かつて「近つ飛鳥」と呼ばれた王権の里だったことを物語っています。
 応神天皇陵は,そんな現代の街並みも古代の史跡も威圧するように堂々と横たわっています。

そう,これが鶴岡八幡宮,否、宇佐八幡を筆頭とする全国あまたの八幡神社に祭られる「八幡大神」の生前の御身体が葬られたという巨大墳墓。

全長425メートル。古市古墳群では最大,そして全国では第2位の大きさを誇る前方後円墳です(冒頭写真)。

ちなみに日本最大の古墳といえば,仁徳天皇の墓だといわれてきた大仙古墳(百舌鳥耳原中陵)。日本人なら誰しも社会科の授業で習った前方後円墳です。
 仁徳天皇といえばやはり八幡神社で「若宮」として,父の応神天皇とともに祭られていることが多いです。
 こちらは全長486メートル。古市古墳群から西へ十数キロ離れた百舌鳥古墳群(大阪府堺市)で多数の古墳を軍艦のように従える空母のように堺の都市に浮かんでいます。

さて,応神天皇陵に話を戻しましょう。冒頭の航空写真だと前方後円墳の形がわかりますが,地上からだと巨大すぎて到底,形なんかわかりません。
 応神天皇陵の前方部には拝所と宮内庁事務所が隣接しており,後円部には誉田八幡宮が隣接しています。自分は,宮内庁事務所で御陵印をいただいた後,誉田八幡宮まで古墳の周囲に沿って歩いて行ったのですが,30分かかりました。

これが一人のお墓だなんて,ホント・・・。


伝,仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ))にて

誉田八幡宮はちょうど秋の例祭でした。写真はこの2月に撮った境内の様子ですが,例祭当日には参道沿いに出店が並んで大変賑わっていました。
 この誉田八幡宮の「誉田(こんだ)」というのは応神天皇の名前に由来します。
 「応神」というのは後世から追贈された漢風の諡号であって生前の名前ではありません。記紀が伝えるところでは,応神天皇の本名は,ホムタワケ(漢字では品陀和気または誉田別)。すなわちホムタワケ大王(ほむたわけおおきみ)です。
神社の、「誉田宗廟縁起」によれば,誉田八幡宮は,欽明天皇(ヒロニワ大王)の勅命で6世紀中頃に,ホムタワケ大王の霊廟として創建されたといいます。
 国内外で武勲目覚しい大王の御陵の宗廟とあって,古くから軍神として崇敬を集め,源頼朝も立派な神輿や鞍を誉田八幡宮に寄進しています。


応神天皇の宗廟,誉田八幡宮〜渡来系豪族の祖神を祭る別社や放生池の埴輪など境内は古代色豊かです



誉田八幡宮での神楽奉納
1世紀の倭奴国の時代から,一時的な連合と分裂を繰り返したと思しき倭の諸王権ですが,ホムタワケ大王から始まる河内王朝の頃にようやくヤマトの大王を中心に次第に強固に持続的にまとまっていったことが考古学成果から示唆されます。
 国内の統合だけでなく対外面でもかつてない進展がありました。369年以降に百済と連携して朝鮮半島にたびたび出兵し,ついに391年には北方の強国,高句麗と干戈を交えるに至りました(高句麗広開土王碑)。大陸側の歴史書にはこのときの倭王の名は記されていませんが,倭の将軍の名がいくつか記されており,その中にはホムタワケ大王の重臣だったサチヒク(ソツヒコ)や木羅斤資の名が見当たります。また日本書紀では,百済の近肖古王(在位:346年 − 375年)から阿辛王(在位:392年 − 405年)までがホムタワケ大王の在位中の百済王だとされているので,この一連の軍事行動を指導したのはやはりホムタワケ(誉田別)大王だろうと考えられています。
 おそらく大陸特に百済との接触がきっかけとなったのでしょう,文化交流もさかんになり,漢字・学問の普及,大規模な土木事業,須恵器・養蚕の工芸の進展など,技術革新も飛躍的に進みました。百済の五経博士,王仁が大王のお世継ぎの家庭教師として招聘されるなどホムタワケ大王の治世中に多くの学者や技術者集団が倭国に来て活躍したと記紀は物語っています。
 



古墳時代の舟をかたどったシュラホール(藤井寺市生涯学習センター)
倭国の統合,東アジア世界での国際地位の確保,文化技術の発展に大きな業績を残した応神天皇ことホムタワケ大王

・・・考えてみれば,一人の王の業績としても結構スゴイですよね。新時代を切り開いたという点では秦の始皇帝やローマ皇帝アウグストゥスなどに匹敵する君主じゃないかなと思います。
 実在が確実な最古の天皇であり,倭国そして後の日本国へつながる土台を最初に築いたということで,ホムタワケ大王こそが日本の実質的な初代国王であると解釈する研究者もいます。

はやせっ! はやせーっ! はやせぇーっ!

日が西に傾いた誉田八幡宮境内。掛け声とともに勢いよく,山車が次々に境内になだれ込みます。夜9時にはすぐそばの御陵へ御渡り神事が行われます。

ここは全国広く祭られている八幡神社の主祭神様が生前,王として君臨し,今も眠る王権の里

夕日に染まる王墓と廟を見届けて,大阪河内を後にしました。

宇佐神宮の縁起によれば,ホムタワケ大王は死後200年近くたったある日,神霊となって生まれ故郷の筑紫の地に現れ,「今後は神としてこの国をずっと見守りたい」と宇佐に降臨したとされています。これが宇佐八幡の始まりであり,今ある八幡信仰のそもそもの始まりです。
 中世になると,軍神の八幡大神は八幡大菩薩と呼ばれ,戦を生業とする武家の信仰を多く集めました。特に皇孫で軍事貴族の名門だった河内源氏が八幡大神こと応神天皇を祖先神また氏神として大変あつく崇敬し,各地に八幡神社を創建して八幡信仰の伝播に一役買ったことは,このシリーズ1〜5回で述べたとおりです。
 八幡大神は,スサノオノミコトや天照大神と並んで全国各地で広く崇拝されています。その源流をひとつ辿ってみれば,1600年以上前にわが国の始まりに深く関わった倭王でした。
 今や武芸が転じて事業成功の神様として八幡神社は全国に4万あまり存在するといわれています。ある意味当たり前のように多くて身近な八幡様ですが,はるかな古代,この国に確かに存在した英雄王の記憶を今に伝えているのかもしれないですね。

                         2007年10月11日 K.I.




(※註)
この応神天皇陵の写真だけは自分が撮ったものではなく,HP「星のまち交野」管理人様の御厚意により借用させていただいたものです。

星のまち交野:https://murata35.cool.ne.jp/index.html

「星のまち交野」管理人様,今回は大変ありがとうございました。


応神天皇ゆかりの破魔矢と三つ巴神紋旗〜鎌倉,鶴岡八幡宮の舞殿にて


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