トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第73号 


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KIさんの鎌倉リポート No.73(2007年12月27日)


No.72
No.74



鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その8)〜源頼義・義家 父子

ついこの間まで紅葉真盛りかと思ったら,クリスマスも過ぎて今年も残すところあと4日となりましたね。クリスマスの電飾で飾られ,ややモダンな感じを漂わせていた鎌倉の街も,お正月に向けて一転,和風に模様替えしていることでしょう。
 さて,「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズ8回目は,鶴岡八幡宮をはじめ各地に多くの八幡宮を建立した源頼義とその子,源義家の生い立ちなどを,その創建と伝わる八幡神社の写真を交えながら,紹介したいと思います。
 なお,写真はすべてこの11月から12月半ばにかけて撮った神社の黄葉などの風景。この年の瀬,少々時季を逸してしまったけれど,お付き合いくだされば幸いです。

源頼義公(以後,敬称略)は,西暦988年に源頼信の長子として河内国(現在の大阪府羽曳野市)で生誕しました。既に青年期には弓の名手として名を馳せていたようで,今昔物語集の『馬盗人』の巻では,若い頃の源頼義が,父頼信の「射よ,かれや!」という号令にすかさず,夜陰の中を逃げる馬盗人を射止めるというエピソードが記載されています(*1)。
 しかし,源頼義が軍事貴族としての実績を挙げるようになるのは齢四十を過ぎた壮年期(当時としては老境)以後になります。


黄葉の由比若宮。鶴岡八幡宮の元宮で,1063年に源頼義公が創建しました(2007年12月1日撮影)



鶴嶺八幡宮。1030年,父頼信とともに房総の争乱を平定した源頼義公が戦勝御礼として創建しました(2007年12月1日撮影)
このあたりの頼義の経歴を年齢と合わせて見ていきましょう。

1028年,相模国司に任官(40歳)
1030年,父頼信とともに,房総で反乱した平忠常を鎮圧(42歳)
1051年,陸奥国司となり,嫡子,源義家を伴って多賀城に赴任。安倍氏討伐を進め「前九年の役」が始まる(63歳)
1053年,鎮守府将軍となる(65歳)
1057年,安部頼時を戦死させるが,黄海の戦いで安倍氏に大敗(69歳)
1062年,出羽の清原氏と連合して安倍氏を滅ぼし,「前九年の役」が終了(74歳)
1063年,従四位に昇格。伊予国司に任官(75歳)

1030年の「平忠常の乱」は,これまで河内に拠点を置いていた源氏(河内源氏)が東国にも勢力基盤を築く重要なきっかけとなりました。また,このときに武将としてのデビューを飾った源頼義は平直方(忠常討伐の前任者)から鎌倉の屋敷を譲渡され,源氏と鎌倉の縁はこのときから始まりました。
 その時に源頼義が建立したのが茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮です(左写真)。鶴岡八幡宮に先立つこと33年,源氏が建てた最初の八幡宮です。12月初めに自分が訪れたときは本殿のイチョウが黄葉し始めていました。なお,このイチョウの巨木(写真右の木)は樹齢約950年,前九年の役の際に源義家が植えたものだと伝えられています。

さて,平忠常の乱から21年後,河内源氏の初代棟梁として名を馳せた源頼信は既になく(1048年死去),源頼義が河内源氏の棟梁として勢力拡大の機会を伺っていました。坂東から奥州への進出を望んだ源頼義は,陸奥の安倍氏に矛先を向けます。棟梁の安倍頼時は陸奥の国府軍を破って平安京の朝廷と敵対関係にあったのです。
 1051年に陸奥の国司となった源頼義率いる源氏と安倍氏の戦いは後世から「前九年の役」と呼ばれます。断続的に10年以上続いたこの戦役で,最初の大きな戦いが1057年の「黄海(きのみ)の戦い」。安部氏が大勝し源氏軍が壊滅的な打撃を受けたこの一戦を境に力関係が全く逆転し,源頼義・義家親子は再起不可能といわれるほどの苦境に陥ったようです。陸奥国司,源頼義の権威は地に落ち,国府の徴税権を安倍氏が公然と横領するほどだったといいます。当時,20歳前後だった源義家はともかく,老境の源頼義にとってはきっと人生最大の苦難だったでしょう。
 それでも手を尽くして安倍氏を倒す策をあれこれと練り,1062年,出羽の有力豪族,清原氏の援軍を得ることに成功,長年の執念が実って安部氏をついに滅ぼしました。


黄葉のケヤキ並木に佇む源義家公の銅像。この大国魂神社のケヤキ並木は前九年の役に勝利した源頼義・義家父子が神社にケヤキの苗木を寄進したのが始まりと伝えられています(2007年11月21日撮影)

「起死回生」というよりむしろ,神業ともいえる奇跡的な勝利に,源頼義もさすがに神威を感じたのでしょうか,戦勝の直後に源頼義と源義家は,鎌倉の鶴岡八幡宮(1063年創建)をはじめ神社の建立など様々な戦勝御礼を行っています。
 
例えば,右上写真の大国魂神社(東京都府中市)のケヤキ並木。同神社の社伝によれば,前九年の役の最中に源頼義・義家父子が大国魂に戦勝を祈願し,乱平定直後の1062年に御礼としてケヤキの苗木を多数寄進したとされています。

また,右写真の大宮八幡宮(東京都杉並区)。現在では「東京のへそ」との異名をとる同神社の境内ですが,八幡宮ができるずっと昔の古代から,この地は何らかの聖地であったらしく弥生時代の方形周溝墓や祭祀遺跡が発掘されています。天喜年間(1053〜57年)に,軍勢を率いた源頼義がこの地で,源氏の白旗がたなびくような白雲を見て神威を感じ,戦勝後の1063年,再び訪れてここに八幡宮を建立したのが大宮八幡宮の始まりであると同神社の縁起は伝えています。


冬桜の大宮八幡宮。ここも前九年の役に勝利した源頼義によって1063年に建立されました(2007年11月17日撮影)



出雲伊波比神社の流鏑馬。1063年,前九年の役に勝利した源頼義・義家父子が戦勝御礼に流鏑馬を奉納したのが始まりといわれています(2007年11月3日撮影)
そして,もうひとつ。レポートNo.71でも紹介した「出雲伊波比神社の流鏑馬」もまた源頼義・義家父子が戦勝御礼に奉納したもの。年代はまっきりしませんが「前九年の役」の最中に頼義・義家父子が出雲伊波比神社に戦勝祈願し,乱平定後の1063年に再びこの地を訪れて,八幡大神を同神社に合祀し流鏑馬を行ったのが由来だと伝えられているのです。
 「前九年の役」の戦勝御礼として源頼義が建てたといわれる八幡宮を,上で紹介した神社を含めて列挙してみると,以下のようにたくさんあることがわかりました。

飯野八幡宮(1063年創建。福島県いわき市),六郷神社(1063年創建。東京都大田区),大宮八幡宮(1063年創建。東京都杉並区),鶴岡八幡宮(1063年創建。鎌倉市),富塚八幡宮(1071年創建。横浜市戸塚),壷井八幡宮(1064年創建。大阪府羽曳野市)


以上,自分が知っている限りの神社ですが,他にもまだあるかもしれませんね。並べてみて気づいたことですが・・・

八幡宮の建設が1063年に集中していますね!

もっとも,この1063年に戦功によって源頼義は従四位に昇進,源義家は24歳にして従五位下,出羽国司に任官となったのですが・・・
 形の上では昇進ですが,奥州への源氏の勢力拡大を恐れた朝廷は源頼義の陸奥国司の留任を認めず,子の義家に対しても表向きは立身出世と見せかけて,その実は政務経験のない若武者を,増長する清原氏の本拠地にいきなり赴任させるという殆ど嫌がらせ的な手段で牽制を図りました。

あ〜ぁ,物事なかなか首尾よく運ばないのは昔も今も同じなのかもしれないですね〜


鎌倉,早朝の鶴岡八幡宮では,大イチョウが朝日によく映えていました(2007年12月15日)

ともあれ,1063年という年が河内源氏のひとつのピークであったことは確かなのだと思います。
 河内源氏が軍事貴族として一定の勢力基盤を築いたのを見届けて1075年,源頼義は身罷り,源義家が河内源氏の3代目棟梁となりました。そして,1083年に父と同じ陸奥国司に就任して多賀城に赴任し,今度は清原氏の内紛に介入しました。清原清衡を支援して清原家衡らを滅ぼし(後三年の役),父頼義と同様に,奥州に源氏の覇権を確立させようとしますが,またもや源氏の強大化を恐れる朝廷によって陸奥国司を解任され,結局,奥州は清原清衡(奥州藤原氏初代,藤原清衡)が支配することになってしまいました。
 数々の武勲を挙げ,河内源氏の最初の最盛期を築いたと称えられる源義家ですが,親子2代にわたる悲願を達成することはついに出来ませんでした。
 源氏が「関東・奥州の一括支配」という悲願を達成するのには,まだ100年ほど待たなければなりませんでした。源義家から4代目の子孫である源頼朝は鎌倉に武家政権の拠点を築き,源頼義が創建した鶴岡八幡宮を現在の地に移し整備しました。そして1189年,奥州に出陣。同年のうちに奥州藤原氏(4代,藤原泰衡)を滅ぼして奥州一帯を鎌倉の支配下に置き,ついに源頼義・義家の宿願を果たしたのでした。
 12月15日の朝,イチョウの黄葉がまぶしい鶴岡八幡宮の境内を訪れました。この日は月次の祭礼がある日。
 やや高台から市街を見渡す鶴岡八幡宮は今なお鎌倉市の象徴的存在。
 源頼朝が武家の都「鎌倉」の中枢として再建した鶴岡八幡宮は,頼朝だけでなく源頼義や義家など祖先累代の思いが凝集された,河内源氏の絶頂期の象徴でもあったのかもしれませんね。


(註)
*1;今昔物語集の『馬盗人』は,実は源頼義の武勇ではなく,むしろ若い源頼義の未熟さを語るエピソードだとする別の解釈が存在する。それによれば,最初に馬を狙って後をつけてきた馬盗人は源頼義のことであり,夜陰に紛れて馬を盗み出す盗人は父源頼信の命令で盗人のふりをした郎党であるとする。エピソード後半の出来事は,源頼信が愚かな息子をたしなめるために仕組んだ芝居だという解釈もある。


午前10時,イチョウの黄葉の下を月次祭の行列が本殿へと昇っていきました(2007年12月15日)


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