鎌倉好き集まれ!eggmanさんの鎌倉リポート・第14号(2003年2月24日)

一号ポスト( 11 )鎌倉山 + 古写真(おまけ)

  #12 の大仏様の切り通しから西へ降りて常盤口から南に登る、というのが鎌倉山への道の一つにあります。 鎌倉旧市内が明治二十年頃から大正末までの街であるのに対して鎌倉山は新興の住宅地という印象もありますが、鎌倉山は昭和3年から郊外型住宅地として造成されたところ、とのこと、すでに充分熟成した街です。鎌倉旧市内と鎌倉山の関係は関西でいえば芦屋と六麓荘といったところでしょうか...六麓荘のほうが新しいですね、なら六麓荘は田園調布でしょうか。となるとあまり対応付けしにくいです...あー話になっていない...
 桜並木が名所となっていて、春には賑わいます。渋滞も起こるようです。

 この写真の一号君は棟方版画美術館への入り口にあります。足元が埋もれていますが、環境も佳。いい部類に属するのではないでしょうか。
 この一号君は、鎌倉山へのもう一つの入り口である四丁目側の入り口にあります。モノレールの西鎌倉から東方向、赤羽の信号を通って山に入っていって、鎌倉山への入り口のロータリーのところです。ロータリーに鎌倉山のいわれの書かれた碑(昭和四十四年)が建っています。そこの石塔は関東大震災で崩れた八幡宮の鳥居ときいたことがあります。一の鳥居(海寄り)のみ昔のままであと二つは崩壊。
 裏に竹やぶもありのどかで静かないい環境です。が、ちょっと車が多く少々埃っぽいところであることに加えて、この電話ボックスはどうもなんです...いかにも、ガラス・プラスチック・金属 だからでしょう。

昭和三十年代前半の鎌倉山

 前回の号外(#13)に続いて古い写真を一枚ご紹介します。私が鎌倉山にあまりなじみがないこともありますが場所の特定はできていません。先の写真では国体という行事から日時まで特定可能ですが今回の写真は年の特定もできていなくて、昭和三十三年-三十五年頃の春としか分かりません。

 かやぶきのうちがあります。手前には今でも残る桜並木があります。道路は舗装されていないのでしょうか。自転車が似合います。土の匂いやひばりの声がしそうな感じです。
 五百年ぐらいしたらこの景色が戻るでしょうか...

昔話を一つ...

おまけ
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、昔の 薬箱 です。越中富山の薬売りが置き薬として各家庭に置いていって年に一度使った分のお代を清算する、という商売方法として認識しています。日本も優れたビジネスモデルを生んでいるのだという例の一つではないでしょうか(他には今世界中でなされている 商品先物 も発祥は江戸時代初期の大阪だと聞いたような気がします;いつもながらの不確かな記憶、確認すらしていない、正しいことをご存知の方はご教授ください)。
 薬売りさんはこどもに紙風船とかぴーっと伸びる笛とかをくれた記憶があります。いつから来なくなったのか記憶がありません。余談ながら紙風船もいまでは作れる職人がいなくなったそうです(近年)。

 この中身の薬もあったのですが捨てさせられてしまいました。この箱だけはようやくの思いで確保した、というところです。中の薬の箱(パッケージ)も工業デザインとして興味深いものでした。捨てさせられたことをつくづく惜しいと思っています。

 金魚売、ちんどん屋さん、ししまいなど、私の記憶の片隅に薄く残っています。たぶんどれも一、二度見たことがあるという程度です。そうそう傷痍軍人がお寺で白い服着てアコーデオン弾いていたのも何回か見ました。このようなものは何時まであったのでしょうか。