鎌倉好き集まれ!秀さんの鎌倉リポート・第27号(2003年11月4日)
今小路ぶらぶら
寿福寺近くから六地蔵までの今小路をぶらぶらしました。
東勝寺橋の袂のレストランで貰った明治29年発行の地図(以下、地図-Aと称す)と、島森書店で買った昭和2年発行の地図(地図-B)を眺めながら・・・・。
昔は武蔵国の府中や寄居に通ずる上道と繋がっていたので
武蔵大路とも呼ばれていた『今小路』。
地図-Aにて、『正宗ヤシキ』と書いてある辺りだろうと適当に
見定めて、酒店の角の細道を右折して少し行くとこの標識を
見つけました。 (正宗:相州の名刀鍛冶・五郎正宗のこと)
標識の足元には、小さな祠があり、ソレが『正宗稲荷』でした。
*地図-A: 近くには『運慶ヤシキ』の表示もありますが
『興禅寺』の記載なし。
*地図-B: 『正宗ヤシキ』はなく、『正宗稲荷』のみ。
東勝寺橋の袂のレストランで貰った明治29年発行の地図(以下、地図-Aと称す)と、島森書店で買った昭和2年発行の地図(地図-B)を眺めながら・・・・。
昔は武蔵国の府中や寄居に通ずる上道と繋がっていたので
武蔵大路とも呼ばれていた『今小路』。
地図-Aにて、『正宗ヤシキ』と書いてある辺りだろうと適当に
見定めて、酒店の角の細道を右折して少し行くとこの標識を
見つけました。 (正宗:相州の名刀鍛冶・五郎正宗のこと)
標識の足元には、小さな祠があり、ソレが『正宗稲荷』でした。
*地図-A: 近くには『運慶ヤシキ』の表示もありますが
『興禅寺』の記載なし。
*地図-B: 『正宗ヤシキ』はなく、『正宗稲荷』のみ。
この神社は、小さいけれど、由緒は古く、蝦夷征伐に赴く
坂上田村麻呂の時代に遡るそうです。
寿福寺の鎮守で同寺の南東(巽)の方向にあるので、
『巽神社』。今はハチミツ屋の真向かいに位置します。
神社の境内には江戸時代の銘の刻まれた石灯籠有り。
* 地図-A:『巽荒神』と表示。
* 地図-B:『巽荒神』と表示。
KINOKUNIYAや交番を過ぎて暫く進むと、左手の土塀の隅に
この『問注所址』の石碑があります。
問注所は鎌倉幕府の裁判事務を取り扱う機関で、元々は大倉幕府
(現鶴岡八幡の東側)にあったとの事。
土塀からはみ出してきた竹の陰影が苔生した石碑に更なる趣を。
* 地図-A: 『問注所址』と表示。
* 地図-B: 『問注所址』と表示。
問注所と道路(今小路)を挟んで反対側にあるのが『御成小学校』。
とても、小学校とは思えないような立派な校門を潜ると、左手に
この特徴ある屋根の付いた木造の講堂が。
(老朽化の為でしょうか、現在は使用されていない感じでした)
*地図-A: この辺りは一面が畑マークのみ。
*地図-B: この辺りは『御用邸』(注)となっています。
(注):明治天皇の第八、第九皇女の避寒用の御用邸として、明治32年に
建設されたが、二人の結婚と更に関東大震災で大きな被害を受けた
ので、昭和6年に廃止されたとの事。
出所:加藤理著「古都・鎌倉案内(洋泉社)」
とても、小学校とは思えないような立派な校門を潜ると、左手に
この特徴ある屋根の付いた木造の講堂が。
(老朽化の為でしょうか、現在は使用されていない感じでした)
*地図-A: この辺りは一面が畑マークのみ。
*地図-B: この辺りは『御用邸』(注)となっています。
(注):明治天皇の第八、第九皇女の避寒用の御用邸として、明治32年に
建設されたが、二人の結婚と更に関東大震災で大きな被害を受けた
ので、昭和6年に廃止されたとの事。
出所:加藤理著「古都・鎌倉案内(洋泉社)」
佐助川に掛かる小さな『裁許橋』を超えて、由比ガ浜大通り
に出る左手前角にあるのが『六地蔵』。
*地図-A: 『飢渇畠』。 「六地蔵」の表示はナシ。
*地図-B: 『六地蔵』。
いずれの地図にもバス停のマークはなかったけれど(笑)、
別のガイドブックによれば、その昔はここからやや北の方に
刑場があり、六地蔵は罪人の霊を弔う為に作られたそうで、
その後に現在の場所に移されたとの事。
チョット見えにくいですが、地蔵尊の後ろにある案内石碑に
『飢渇畠』(けかちばたけ)と書かれています。
に出る左手前角にあるのが『六地蔵』。
*地図-A: 『飢渇畠』。 「六地蔵」の表示はナシ。
*地図-B: 『六地蔵』。
いずれの地図にもバス停のマークはなかったけれど(笑)、
別のガイドブックによれば、その昔はここからやや北の方に
刑場があり、六地蔵は罪人の霊を弔う為に作られたそうで、
その後に現在の場所に移されたとの事。
チョット見えにくいですが、地蔵尊の後ろにある案内石碑に
『飢渇畠』(けかちばたけ)と書かれています。