鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第10号(2009年12月24日)

梶原景時

梶原のひとしずく、何処かに芽生えんことを・・・・・

梶原景時を偲ぶ石碑

供養塔

頼朝の重臣「梶原景時」が最初の犠牲者になったのは頼朝が急死した一年後だった。「梶原景時」終焉の地に行ってきました。現在「梶原山公園」として整備され見晴らしのいい公園でした。命日の一月二十日 毎年供養祭が行われているようです。



梶原氏歴代当主「梶原景久」のひ孫にあたる景時は石橋山の戦いで、「大庭景親」の軍について戦った。この戦いで頼朝を救った。



養和元年(1181)一月十一日 頼朝は景時と対面し、弁舌が巧みで教養もあり頼朝に気に入られ御家人に列し、その後「侍所所司」に任じられた。



「上総広常」と双六を打っていた景時は突然盤を乗り越えて広常の頸をかき斬った。頼朝が景時に命じて殺させた。「朝夷奈切通」の手前「十二所果樹園」入口辺りに上総広常邸があったようです。そのあとこの水で血のりを洗い流したといわれる「梶原太刀洗」小さな案内板があります。



建久十年(1190)十月三日 頼朝が初めて上洛すると景時は後陣として参加し、途中の近江国橋本宿で遊女たちに贈り物をしたという。その時頼朝と景時が連歌を交わしたといわれている。

   はしもとのきみにはなにかわたすへき(頼朝) たたそまかはのくれてすぎばや(景時)



建久十年(1199)正月に頼朝が死去すると、三浦義村・和田義盛ら武将66名による「梶原景時」排斥を求める連判状が頼家に提出され、十一月頼家は景時に連判状を下げ渡した。頼家は「是非を申し述べよ」と言ったが景時は何も言わず一族と共に所領の相模国一ノ宮の館に退いた。



正治二年(1200)一月二十日に景時父子一族は相模国一ノ宮を出立した。途中駿河国清見関にて刺客の待ち伏せに遭い、三男景茂は一騎打ちで共に討ち死に、景時はなれない土地で又沼地の多い場所で脱出をこころみるが、隙のない何百人もの武者が道をふさいでいる。



静かな所に身を隠し最期をむかえよう、景時は付近の「夕日無山」の頂を死に場所に選んだ。

「我らはここに果てようとも梶原のひとしずく、何処かに芽生えんことを・・・・・」

景時61歳・景季39歳・景高36歳・景茂32歳だった。

公園からの景色

北東方面の富士山

駿河湾

JR清水駅方面

三保の松原方面

日本平方面

毎年七月十五日建長寺にて行われている「三門梶原施餓鬼会」の後「梶原景時」の慰霊のため再度施餓鬼会が行われています。梶原景時と建長寺とのつながりは何なのか興味のあるところです、わかりましたらリポートしたいと思っております。