鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第25号(2010年3月8日)

承久の乱

恩義は山よりも高く、海よりも深い

承久三年(1221)五月十四日「後鳥羽上皇」は北条義時を討てと院宣を発した。京都守護の「伊賀光季」ただ一人上皇の命令を拒んだ。翌15日「伊賀光季」の邸が襲われ討死したが、下人を落ち延びさせて事を鎌倉幕府に知らせた。

一方上皇方は三浦義村を始め全国の有力豪族に密書を送った。ところが上皇方の使者は捕らえられて密書を取り上げられ、密書は幕府に届けられた。こおして幕府は先手を打ち「尼将軍御台所」は御家人達の前で演説をした。

「みな、心を一つにして聞いて欲しい。これが最後の言葉です。亡き頼朝殿が朝敵を討ち武家政治を初めて以来、官位の事といい俸禄の事といい、頼朝殿から受けた恩義は山よりも高く、海よりも深いはずです。しかし今、私達は不正な綸旨によって反逆者の汚名を着せられました。名誉を重んじるなら直ちに本当の朝敵である藤原秀康や三浦胤義らを討ち、鎌倉の政治を守るべきです。ただし、もしどうしても朝廷に味方したいという者がいるなら、今申し出なさい。」

「尼将軍御台所」が演説してからわずか三日後、長男の北条泰時を大将として、弟時房を副将として東海道・東山道・北陸道の三道から大軍を京へ進めた。京へと攻めのぼってくる幕府軍を朝廷軍はむかえ討ち木曽川や宇治で戦った。

幕府軍と朝廷軍の兵力差は歴然としており朝廷方は一戦のもとに敗れさり、義時追討の院宣が出てから一ヶ月足らずの間に朝廷方の軍勢を壊滅させ京を占拠した。「承久の乱」は幕府方の完全勝利で終わった。










西国にも及ぶように成った

三上皇の配流に代表されるこれらの処分は朝廷の権威を失墜させ、幕府の力を天下に知らしめる事と成った。

後鳥羽上皇・・・隠岐の島に配流

順徳上皇・・・佐渡が島に配流

土御門上皇・・・土佐に配流

北条義時は上皇方についた公家・武士の所領を全て没収し、幕府領とした。この時没収された所領は三千ヶ所余にのぼった。幕府はこの没収した所領を恩賞として御家人に与え、これらの所領は主に西国に広がっていたので、幕府の勢力は西国にも及ぶように成った。

「六波羅探題」北条氏一門から

「承久の乱」で、幕府軍を率いて入京した北条泰時・時房は、乱後も六波羅に留まり、乱後の処理や尾張国以西の西国御家人を統括するとともに、京都市中の警備と朝廷の監視を行い鎌倉幕府と連絡を取りながら庶政にあたった。これが「六波羅探題」の起源で、六波羅北方・六波羅南方各一名の探題か゛北条氏一門から選任された。

幕府を滅ぼし、もう一度政治の実権を朝廷に取り戻そうとして行なわれた「承久の乱」が、結果として幕府の勢力を強める事に成ったのは、何とも皮肉な話です。「承久の乱」で幕府を勝利に導いた二代執権北条義時は乱から三年後の、 天仁元年(1224)六月十三日に死去した。六十二歳だった。

義時はこの年の六月十二日発病し、翌十三日急死した。原因は脚気による急性の心臓障害であった。と「吾妻鏡」に記述がありますが・・・