鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第26号(2010年3月19日)

江間殿(北条義時)

「姫の前」と称する幕府の官女

「北条寺」 義時夫妻の供養塔がある

伊豆国江間に居住し幼少よりこの地で育ち「江間小四郎」と称していた。それで江間殿なんですね、その後十九歳で頼朝の挙兵に父と兄に従い石橋山の戦いに加わっている。戦いで兄「宗時」を亡くしていた為、嫡男として家督を継いだ。

*養和元年(1181)四月七日 御家人の中で弓矢に優れ信頼の有る者を選び、毎夜御寝所近辺の見回りを定められた。この記述の中に「江間四郎」の名が有ります。

江間四郎(義時)二十一歳の時寿永二年(1183)長男(泰時)を儲けていた。母は側室の「阿波局」で御所の女房だった。

吾妻鏡にはこの件についての記述が無く確かではありません。寿永二年(1182)は記載が一年間抜け落ちています。

*建久三年(1192)九月二十五日 幕府の官女(姫の前)今夜初めて江間殿の御邸に渡る。これ「比企朝宗」が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容姿が美麗なりと。ところが江間殿、受け入られなかった、将軍家がこのことを聞かれ、離別しないと起請文を取って行くよう「姫の前」に命じられたので、起請文をもらいうけ結婚の儀におよんだ。

建久四年(1193)次男「朝時」を、建久九年(1198)三男「重時」が生まれている。しかし建仁三年(1203)「比企の乱」の直後離別して「姫の前」は上洛再婚したと言われています。



「伊賀の方」伊賀朝光の娘

北条義時夫妻供養塔

*正治二年(1200)五月二十五日で「吾妻鏡」に記述が有りました。
江間殿(北条義時)の妾が男子を安産した。加持の為鶴岡若宮の別当が昨夜から大倉邸におられた。羽林(源頼家)は御馬を、尼御台所は産衣を遣わされた。

「有時」が生まれていました。母は「伊佐朝政」の娘「有時」は四男にあたりますが、通称「陸奥六朗」病弱だったようで、江間殿の葬儀でも序列は最後尾に成っていたようです。

相州(義時)は元久元年(1204)頃でしょうか「伊賀の方」を継室として婚姻したようです、翌年元久二年(1205)四男「政村」を承元二年(1208)「実泰」が生れている。

「承久の乱」で、幕府を勝利に導いた二代執権北条義時は乱から三年後亡くなりました。「吾妻鏡」に記述がありました。

*元仁元年(1224)六月十八日 前の奥州禅門葬送す。故右大将家「法華堂」東の山上を以って墳墓と為す。

鎌倉市と湘南工科大学とで平成十六年頃だったでしょうか、「北条義時法華堂跡確認調査」で可能性は極めて高いと結論づけています。

「法華堂東の山上を以って墳墓と為す」は過去にどなたかリポートしておりましたので今回省略しました。



継室の「伊賀の方」によって毒殺か

藤原朝光娘 とは「伊賀の方」になります

北条相模守従四位下 江間小四郎 平義時

幕府の記録では病死ですが、あまりにも急であった為死因をめぐって憶測がかわされ、中でも、後妻の「伊賀の方」によって毒殺されたと言う説です。

相州(北条義時)が亡くなって三年後に、「承久の乱」の朝廷側の重要人物であった「法印尊長」は潜伏先で、六波羅探題に捕らえられた。取調べによって尊長は「義時の妻が義時に飲ませた薬を私にも飲ませろ。」と言ったといいます。この事が根拠となり「毒殺説」が出てきたようです。「吾妻鏡」にも此の件の記述がありました。

*安貞元年(1227)六月十四日 去る七日、油小路大炊の助入道後見肥後房の宅に於いて、「法印尊長」を虜らんと欲するの処自害を企つ、翌日八日六波羅に於いて尊長すでに死去す。これ去る「承久の乱」の張本なり。

相州(義時)の後妻「伊賀の方」が、二男で兄の「伊賀光宗」と北条泰時を排除しようと企んでいた。「伊賀の方」は息子の「政村」を執権に娘婿(一条実雅)を将軍にし幕府を乗っ取ろうとした。「一条実雅」は「法印尊重」の実弟にあたります。この陰謀は後鳥羽院に関係する人々が陰で糸を引いていたのでは、と思われています。

相州(義時)が亡くなった二ヵ月後「吾妻鏡」にこんな記述がありました。

*元仁元年(1224)八月二十九日 前の相州後室禅尼、二位家(政子)の仰せに依って、伊豆の国北条郡に下向し、彼の所に籠居すべしと、「伊賀光宗」は信濃の国に配流す。

伊賀氏の陰謀に対し尼御台所が先頭に立って対抗し、北条泰時を三代執権の地位につけた。しかし執権就任後も、伊賀氏側はあきらめず、有力御家人の「三浦義村」の抱きこみにかかりました。

そこで、はっきり決着を付けるべきと考えた尼御台所は御家人を集め、伊賀一族の処分を提案し反対する者は無くこの結果一族は完全に没落した。

「北条泰時」を排除し、幕府乗っ取りの陰謀は事実だと思います。「吾妻鏡」には「義時の妻が義時に飲ませた・・・・のくだりは出ていませんが、藤原定家の日記「明月記」として記述されています。

「吾妻鏡」にこんな記述がありました。

*元仁元年(1224)十二月二十四日 伊豆の国北条の飛脚到来す。右京兆(義時)の後室禅尼、去る十二日以後病悩す。昨日巳の刻より危急に及ぶの由、これを申す。























大江朝臣広元法師卒す(法名覚阿) 年七十八

北条義時法華堂跡入口 「覚阿大江公御塔前」

大江広元の墓といわれている

これまで幕府や北條氏の執権体制を支えてきた大江広元公と尼将軍(北条政子)は嘉禄元年(1225)相次いで没しました。北條氏の執権政治は新しい局面を迎える事になった。

ここで大江広元法師に付いてリポートしてみます。知らない人は無い位有名人です。母の再婚相手である朝廷に仕える官人だった「中原広季」の養子となり、中原姓を名乗ったようです。

元暦元年(1184)相模国鎌倉に下向、鎌倉幕府政所別当に就任し源氏三代に将軍に仕え、北條氏の執権政治に協力してきた。

建保四年(1216)四月七日中原姓から大江姓に戻っている

建保五年(1217)十一月十日出家して法名覚阿


長男「大江親広」は嫡流として政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任したが「承久の乱」で朝廷側に付き失脚している。

次男「長井時広」が嫡流となり、彼を祖とする長井氏からは評定衆・引付衆の要職に任じられた人物を多数出している。

三男「那波宗元」上野国那波荘に勢力を扶植、宝治合戦における
三浦氏への加担を問われ辞職している。

四男「毛利季光」毛利氏の祖、承久の乱で戦功をあげて、評定衆に任じられた。しかし宝治合戦にて三浦氏側(妻が義村の娘)に付き、子供三人と共に自害している。しかし四男の「経光」は越後国佐橋荘にいて残り「毛利元就」の祖と成っている。

*嘉禄元年(1225)六月十日 前の陸奥の守正四位下大江朝臣広元法師(法名覚阿)卒す。年七十八





二位家薨御す

尼将軍北条政子こそ波乱万丈の人生を送ったと思います。幕府草創期から亡くなる二年前「勝長寿院」の奥に「南新御堂」を建て弥勒を本尊として大姫を供養した。一年前は伊賀氏の陰謀に対して徹底して戦い没落させた。唯一楽しかった事は伊豆国北条の地で生まれた大姫との生活でわなかったでしょうか。

昨日伊豆国北条の地をこの目で見たくなり又北条氏ゆかりのお寺を訪ねてきました。狩野川をはさんで東は伊豆の山、西は駿河の海、広い平野で暖かくいい所でした。

*嘉禄元年(1225)七月十一日 二位家薨御す。御年六十九。これ前の大将軍の後室、二代将軍の母儀なり。