鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第27号(2010年3月19日)
平兼隆(山木判官)
守山八幡宮(現在は守山八幡神社)
*治承四年(1180)八月四日 平兼隆(山木判官)は伊豆国の山木郷に配流された流人であった。周囲の郡郷に平清盛の威光を振りかざしていた。そこで国敵を討つ為、それに頼朝自身の思いを遂げる為、はじめに平兼隆を攻め滅ぼすこととした。
*治承四年(1180)八月十七日三島社の神事があった。軍兵は原木を北に肥田原に着いた。平兼隆の郎徒の多くは三島社を参拝し、その後黄瀬川宿に留まり遊び歩き不在であった。わずかな郎徒たちは死を恐れず向ってきた。屋敷に火を放ち平兼隆の首をとった。すべて燃えつきる頃には夜が明けていた。戻って来た武士たちは館の庭に集まり、頼朝は縁で平兼隆と主従の首を御覧になった。
*治承四年(1180)八月十七日三島社の神事があった。軍兵は原木を北に肥田原に着いた。平兼隆の郎徒の多くは三島社を参拝し、その後黄瀬川宿に留まり遊び歩き不在であった。わずかな郎徒たちは死を恐れず向ってきた。屋敷に火を放ち平兼隆の首をとった。すべて燃えつきる頃には夜が明けていた。戻って来た武士たちは館の庭に集まり、頼朝は縁で平兼隆と主従の首を御覧になった。
神社入口左側に碑があり読んでみました。
史跡 源頼朝挙兵之碑
源頼朝治承四年(1180)八月十七日 守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵、夜陰、源氏重恩の軍兵数十騎山木判官平兼隆を襲い討つ。その間頼朝遥かに山木館の火煙を望み悲願の達成を悦ぶ、鎌倉幕府草送創の礎はここに於いて成ると、故に記して建碑の所以とする。
史跡 源頼朝挙兵之碑
源頼朝治承四年(1180)八月十七日 守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵、夜陰、源氏重恩の軍兵数十騎山木判官平兼隆を襲い討つ。その間頼朝遥かに山木館の火煙を望み悲願の達成を悦ぶ、鎌倉幕府草送創の礎はここに於いて成ると、故に記して建碑の所以とする。