鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第28号(2010年3月19日)
北条四郎(北条時政)
武家の繁栄は、この額の字に・・・
山号を天守君山と称し、阿弥陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺である。
創建は鎌倉時代初期の文治五年(1189)に遡る。この地源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。
「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡き父の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条三代にわたる。
この地に、守山を借景として、中ノ島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が北条氏の氏寺として造営されていた。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和四十八年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。
宝物館に祀る北条政子尼七回忌供養地蔵菩薩像も十三世紀前期の運慶仏師による秀作とされ、県指定文化財である。
創建は鎌倉時代初期の文治五年(1189)に遡る。この地源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。
「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡き父の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条三代にわたる。
この地に、守山を借景として、中ノ島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が北条氏の氏寺として造営されていた。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和四十八年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。
宝物館に祀る北条政子尼七回忌供養地蔵菩薩像も十三世紀前期の運慶仏師による秀作とされ、県指定文化財である。
願成就院
吾妻鏡にも記述がありました。
*文治五年(1189)六月六日 北条殿(時政)が奥州征伐の戦勝祈願のため、又伊豆国北条に伽藍を造営する為、今日事始めがあった。上棟が行なわれ供養も行なわれた。名を願成就院といい本尊は阿弥陀三尊である。この場所は南条・北条・上条・中条の地で境を接していた。先祖ゆかりの地に寺院の建立に至った。
*文治五年(1189)十一月二十四日 北条殿が伊豆国に下向した。伽藍建立の造作を奉行するため。
*文治五年(1189)十二月九日 伊豆国の願成就院の北隣の地に二品(頼朝)の御宿館を建てるので土地の造成を始めると、古い額が出てきた。額には願成就院とあり、泰衡征伐が速やかに鎮まったのは北条殿の祈願のためである。武家の繁栄は、この額の字に異ならないであろう。
北条氏の執権政治の繁栄を予言しているようです。
*文治五年(1189)六月六日 北条殿(時政)が奥州征伐の戦勝祈願のため、又伊豆国北条に伽藍を造営する為、今日事始めがあった。上棟が行なわれ供養も行なわれた。名を願成就院といい本尊は阿弥陀三尊である。この場所は南条・北条・上条・中条の地で境を接していた。先祖ゆかりの地に寺院の建立に至った。
*文治五年(1189)十一月二十四日 北条殿が伊豆国に下向した。伽藍建立の造作を奉行するため。
*文治五年(1189)十二月九日 伊豆国の願成就院の北隣の地に二品(頼朝)の御宿館を建てるので土地の造成を始めると、古い額が出てきた。額には願成就院とあり、泰衡征伐が速やかに鎮まったのは北条殿の祈願のためである。武家の繁栄は、この額の字に異ならないであろう。
北条氏の執権政治の繁栄を予言しているようです。
八重姫入水の地
源頼朝公との一子「千鶴丸」を殺された伊東祐親公の娘「八重姫」は意を決して、治承四年七月十六日侍女六人と共に伊東竹の内の館をぬけ出し、亀石峠の難路にはやる気持ちをおさえ頼朝公が身を隠す北条館の門をたたいたが入れてもらえず、帰る術もない八重姫はあわれ真珠ヶ渕の流れに若き命を断ってしまった。
真珠院境内に御堂を建て八重姫を祀った。御堂には小さな梯子が沢山掛けてある、梯子があったなら八重姫を助けられたと言う事らしい。
真珠院境内に御堂を建て八重姫を祀った。御堂には小さな梯子が沢山掛けてある、梯子があったなら八重姫を助けられたと言う事らしい。
頼朝公配流の地を訪ねて
源頼朝公の配流の地を訪れて見たいと思い又北条寺の北条義時夫妻の御墓、義時公の隣りは誰が祀られているのか、吾妻鏡の記述にある、
「二位家の仰せに依って、伊豆の国北条郡に下向し、彼の所に籠居すべしと、」 誰なのか確認したく訪れてみました。
「蛭ヶ小島」は広い田園地帯の一角で、近くまで丘が迫り、中州の様な所だった。湿地帯で蛭がいたのでしょうか。おもかげはありません。二十五・二十六・二十七号でリポートしました。
「二位家の仰せに依って、伊豆の国北条郡に下向し、彼の所に籠居すべしと、」 誰なのか確認したく訪れてみました。
「蛭ヶ小島」は広い田園地帯の一角で、近くまで丘が迫り、中州の様な所だった。湿地帯で蛭がいたのでしょうか。おもかげはありません。二十五・二十六・二十七号でリポートしました。