鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第29号(2010年4月24日)

北条泰時(江間太郎)

十三歳で元服そして婚約

由比ヶ浜の美しい曲線

紫陽花の季節には多くの人が訪れる

江間四郎(義時)二十一歳の時寿永二年(1183)長男(泰時)を儲けていた。母は側室の阿波局で御所の女房だった。二十六号でリポートしました。

*建久五年(1194)二月二日夜になって、江間殿の嫡男(泰時)が元服した。幕府で儀式が行われた。将軍家(頼朝)がお出ましになり、御加冠の儀式があった。その後三浦介義澄を座に招し、「この冠者を婿とするように。」と命じられた。

頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘と婚約し、八年後建仁二年(1202)八月二十三日 「矢部禅尼」を正室にむかえ翌年嫡男「時氏」が生まれている。

*建任二年(1202)八月二十三日 江間の太郎、三浦兵衛の尉が女子を嫁す。 と「吾妻鏡」に記述がありました。

1219年第三代執権の北条泰時公が一族の繁栄を願い創建したと伝えられている。由比ヶ浜を望む百八段の階段両側に般若心経の文字数と同じ二百六十二株のアジサイが植えられているようです。

連署と評定衆

承久の乱の三年後父江間殿(義時)を亡くし、その翌年大江広元公(覚阿)と尼将軍(政子)も亡くし、元仁元年(1224)執権になった北条泰時は執権体制を整えていった。

嘉禄元年(1225)幕府に「連署」と呼ばれる役職を設けた。つまり副執権的な役割が連署になります。社長に対して副社長という事でしょうか、このとき連署と成ったのは泰時にとって叔父にあたる「北条時房」です。承久の乱の時泰時と共に京へ攻め込んで乱の後六波羅探題に留まった北条一門です。

連署と成った時房は泰時を助け北条執権政治を築いていきます。さらに泰時は政務に精通した御家人からなる「評定衆」を設けました。評定衆は執権、連署と共に重要な政務を話し合い、幕府の最高意志決定機関になりました。

連署・評定衆の設置により幕府の政治は複数の者達の合議によって物事を決めていくという形をつくり上げたと言えます。

御成敗式目(貞永式目)

趣のある茅葺の三門

北条泰時公墓

承久の乱後西国にも武士による土地支配が及び全国各地で所領に関する争そい事が起こる様になると、習慣や道徳に依って問題を処理しきれなくなり、幕府は明確な問題解決の基準を定めなければならなくなった。これらを解決する為、北条泰時は貞永元年(1232)に「御成敗式目」と呼ばれる法令を制定しました。年号をとって「貞永式目」とも呼ばれています。

六波羅探題に勤めていた泰時の弟重時に泰時が出した手紙の内容を一部分書いてみました。

このたび、御成敗式目と言う物を作りました。貴方も良くご存知のように、幕府はこれまで度々裁判をして争そい事を裁いてきました。しかしその場合、同じような訴えであっても、強い者が勝ち、弱い物が負けてしまうというような不公平が度々ありました。

私はそんな不公平を無くし、身分の上下に関係なく公正な裁判を行なう為の基準として、この式目を作ったのです。

家来は主人に忠義を尽くし、子は親に孝行するように人の心の正直を尊び、曲がった心を捨てた人々が安心して暮らせるように、ごく平凡な道理に基づいて作ったのがこの式目なのです。この式目の内容は津令と違っている所も有りますが、津令を否定しようというのではありません。この式目は武家社会のみに通用させる物なのです。

1237年北条泰時が妻の母の供養のため粟船御堂を建て、「退耕行勇」が供養の導師を務めたのが始まりとされている常楽寺。泰時公の墓も常楽寺にある。

現在の法律にも影響している

北条氏家紋

仏殿天井の「雲竜」狩野雪信が描いたといわれています

御成敗式目の条文をいくつかあげてみます。

第三条「守護の仕事について」
守護の仕事は頼朝公が決められた通り、大番催促と謀反人・殺人犯・盗賊の取り締まりである。近頃守護の中に代官を村々に送り、勝手に村人を使ったり税を集める者や、国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに税を取ったりする者がいる。それらは全て法に反する行いであるから禁止する。

第八条「御下文を持っていても実際にその土地を支配していなかった時のこと」
御家人が二十年間支配した土地は頼朝公が取り決めたように、元の領主に返す必要はない。しかし、実際に支配していないのに支配
していたと偽った者は証明書を持っていても領地を没収する。

第二十三条「女子の養子のこと」
夫婦に子供が無く、夫が死んでしまった後に養子をむかえ領地を相続させることは頼朝公の時から認められている事であり、何ら問題はない。

とても具体的で文章が大変分かり易いですね。この様な法令の無かった当時としては画期的で武家はもちろんのこと、公家や寺社、さらには一般の人々にも影響を与えました。

なお御成敗式目は現在の法律にも影響を残しています。「二十年間実際にその土地を支配すれば、その土地はその者の所有とする。」現在の民法百六十二条にも同じ様な内容を含んでいます。

御成敗式目は制定後も必要に応じて、内容を追加したり補足したりされいます。これらは追加式目と呼ばれ、鎌倉時代を通じて六百条あまりが確認されているそうです。