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十六夜さんの鎌倉リポート No.35(2010年7月15日)



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三門梶原施餓鬼会

毎年七月十五日三門下にて法要



開山在世の頃、建長寺三門下での施餓鬼後一人の武者がかけつけた。法要に間に合わなかった彼のために開山禅師はまた施餓鬼法要を行なうと、その武者は自分は梶原景時の霊であると感謝して立ち去った。それ以来建長寺では毎年七月十五日にあらためて梶原施餓鬼会を行なっている。

日本初の禅師号を与えられた



建長寺開山蘭渓道隆は淳祐六年(1246)筑前博多に着いた。京都では活躍の場がないと鎌倉へ下向するようすすめられた。禅師はまず壽福寺に参じた。これを知った北条時頼公は禅師の居を大船常楽寺に移した。公は禅師の元を訪れ道を問うのだった。

時頼公は建長五年(1253)禅師を開山に日本で最初の禅専門道場の禅寺建長寺を創建。禅師は鎌倉に十三年いて弘長二年(1262)京都建仁寺に移り、のち弘安元年(1278)建長寺に再住、そして七月二十四日示寂した。のち「後宇多天皇」から大覚禅師という日本初の禅師号を与えられた。

龍のような英雄がここに眠る



景時父子三人は林の中の草の上に座をしめ、辞世をしたため自害した。景時六十一歳・景季三十九歳・景高三十六歳であり、正治二年(1200)一月二十日の事であった。(十号にてリポート済みです)

現在「高源寺」(静岡市清水区臨済宗妙心寺派)の境内に建っている碑は昔から梶原一族の供養碑と伝えられているそうです。碑に刻まれている文字は「不蓋乾坤燈外燈龍没 三拾三人是世」 「悠久な日月の光に供養されて、龍のような英雄がここに眠る。」

*吾妻鏡にこんな記述がありました。承元三年(1209)故梶原景時と一族のために、法華堂で供養を行なった。相州(北条義時)が参られた。日頃、御所中に怪異などがあり、また夢のお告げがあり、ひとまず善行を積んで、怨霊を鎮めるためこの供養を行なった。


名だに残らじと哀れなり・・・



梶原一族が滅びた四十二年後、仁治三年(1242) 鎌倉に赴いた時の道中記(東関紀行)に「「或木陰に石を高く積み上げて、目に立つさまなる塚あり。人にたずねれば梶原が墓となむ答ふ。旧き塚となりなば名だに残らじと哀れなり・・・。」とある

激しいかっとうが演じられれば演じられる程、勝者に対する敗者の怨念は尾を引き血で血を洗う繰り返しが栄枯盛衰の形で歴史をつくることはいまさら言うまでもない事である。 高源寺先代住職が平成元年に発行した冊子「梶原景時」より一部引用致しました。

梶原一族が滅ぼされて五十三年後



禅師には景時公が見えたと言うことになります。いろいろ調べたのですがはっきりした事は解りません、鎌倉を行き来した禅僧、あるいは目的を持った旅人から得た情報又、禅師自身が鎌倉に下向していろいろな書物を読み知り得た事の中で梶原一族の事が気になっていた、それで禅師には梶原景時公が見えたということで独断で結論づけました。


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