鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第37号(2010年8月3日)

鎌倉幕府十四代執権北条高時

新田義貞の鎌倉攻め

稲村ヶ崎

正和五年(1316)十四歳で鎌倉幕府十四代執権になった「北条高時」。正中三年(1326)病のため二十四歳で執権職を辞して出家、後継をめぐり騒動がおこるが「北条守時」が就任することでおさまった。慣例に従い実権は北条高時公がにぎり北条守時公は名ばかりの執権であった。

元弘三年(1333)五月 後醍醐天皇の呼びかけに応え、鎌倉幕府討伐のため「新田義貞」は上野国で挙兵した。兵力百五十騎にすぎなかったがその後、越後・甲斐と加わり、武蔵国に入り「足利義詮」(足利尊氏の嫡子)が合流したことにより、関東の武士も加わり義貞軍はふくれあがり大軍になった。

義貞軍は鎌倉街道を南下、幕府への不満をつのらせていた武蔵の御家人の援護を得て、幕府軍と分倍川原で決戦になった。義貞軍は大敗するが翌日、幕府軍から寝返った三浦一族の「大多和義勝」らと幕府軍を撃破した。その後多摩川を渡り幕府軍「北条泰家」と決戦になったが義貞軍の勝利に終った。泰家はかろうじて鎌倉にもどった。

南下をつづけ兵を進めた義貞軍は「堀口貞光」を巨福呂坂切通方面に、「大館宗氏」を極楽寺坂切通方面に、義貞は仮粧坂切通にむかった。攻防戦は五日間続いた。極楽寺坂の「大館宗氏」が幕府軍の襲撃にあい戦死した。その家臣の十一人塚が稲村ガ崎にある。

義貞は極楽寺坂突破をあきらめ干潮に乗じて稲村ガ崎から突破し、幕府軍の背後をついて鎌倉へ突入し火を放った。北条高時一族は東勝寺で自害鎌倉幕府は滅びた。五月二十二日のことで、北条高時公三十一歳だった。

尊氏朝廷側に寝返り、六波羅探題を攻撃

宗氏主従十一人塚

大館宗氏墓

新田義貞が挙兵する前、幕府御家人足利尊氏が京都で朝廷側に寝返り、四月二十七日丹波篠村で挙兵した。その後、五月七日六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を攻撃した。北条時益・仲時両探題は後伏見院・花園院・光厳天皇を供奉して鎌倉へ逃れることにした。しかし道中、時益が討死し近江国番場宿をすぎたあたりで守良新王が軍を率いて待ち構えていた。北条仲時一族は番場「蓮華寺」に追いつめられもはやこれまでと自害あるいは討死した。五月九日ここに六波羅探題は滅亡した。

鎌倉幕府十六代執権北条守時

東勝寺跡

腹切りやぐら

足利尊氏が朝廷側に寝返り六波羅探題を攻め落とすと北条守時の幕府内での立場は悪くなった 。守時の妹は敵将足利尊氏の正室でありそのため離反のそしりをうけないために壮絶な戦いをした。新田義貞率いる討幕軍を迎え撃つため「州崎」まで出撃して激戦をくりかえし次第に数を減らし守時以下九十余人は自害した。鎌倉幕府が滅びる数日前のことで最後の執権北条守時公三十九歳だった。

中先代の乱

護良親王の墓入口

北条泰家は兄高時と行動を共にしなかったようです。兄の遺児時行を落ち延びさせ、自身も陸奥国へ落ち延びたと伝えられています。
その後足利尊氏の弟である足利直義を緒戦で破り、鎌倉を一時奪還する。先代(北条)と後代(足利)の間に、鎌倉の一時的支配者となったので「中先代の乱」と呼ばれている。

護良親王が後醍醐天皇の命で鎌倉に配流され、足利直義の監視下におかれ東光寺(鎌倉宮付近)に禁固の身となっていた。この乱で鎌倉を出て西へ敗走するとき護良親王を殺させていた。明治二年(1869)二月明治天皇の命により大塔宮護良親王を祭神とする社殿が造営され、天皇自ら「鎌倉宮」と名をつけられた。



鎌倉宮