鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第38号(2010年8月15日)
阿仏尼
十四日間で鎌倉へ下る
鎌倉時代中期の女流歌人、実父母は不明で「平度繁」の養女となった。十代で失恋出家を決意し尼となったが世俗との関わりをもち三十歳頃「藤原為家」(藤原定家の二男)の側室となり「令泉為相」を産む。為家の没後相続をめぐり正妻の子為氏と争い 建治三年(1277)十月十六日幕府に訴えるため鎌倉へ下った。
この時の事を記したのが「十六夜日記」全体が四部で構成され第一部で裁判への経緯、第二部は和歌の紀行文、第三部は鎌倉滞在記、第四部は勝訴の為の献歌。訴訟の結果が出る前に「正和二年(1313)勝訴」弘安四年(1281)鎌倉で没したと言われています。
この石碑の辺りに阿仏尼の邸があったのでしょうか、日記にはあづまにて住むところは月影ケ谷とぞいふなる浦ちかき山もとにて風いとあらし、山寺のかたはらなればのどかにて、波の音、松の風たえず。今では想像も出来ません。
この時の事を記したのが「十六夜日記」全体が四部で構成され第一部で裁判への経緯、第二部は和歌の紀行文、第三部は鎌倉滞在記、第四部は勝訴の為の献歌。訴訟の結果が出る前に「正和二年(1313)勝訴」弘安四年(1281)鎌倉で没したと言われています。
この石碑の辺りに阿仏尼の邸があったのでしょうか、日記にはあづまにて住むところは月影ケ谷とぞいふなる浦ちかき山もとにて風いとあらし、山寺のかたはらなればのどかにて、波の音、松の風たえず。今では想像も出来ません。
十六夜日記
紀行文の中で印象的な部分をあげてみました。出発の日子供達も途中まで送ってきたのでしょうか、心よわくてはいかがとて、つれなく振りすて栗田口という所より車(籠)はかえし・・・ここより阿仏尼の紀行文ははじまっています。
「今日は十六日」 ほどなく逢坂の関こゆるほどに、「さだめなき 命は知らぬ たびなれど またあふ坂と たのめてぞゆく」
「二十日」尾張の国熱田の宮奉るうた「いのるぞよ 我がおもうこと なるみがた かたひくしほも 神のまにまに」「はるばると 二村山を ゆき過ぎて なほすえたどる 野べのゆふやみ」
「二十四日」ひるになりてさやの中山こゆ、紅葉いとさかりにおもしろし、「こえくらす ふもとの里の ゆふやみに まつかぜおくる さやの中山」
「二十五日」菊川を出でてけふは大井河という河をわたる。「思ひいづる みやこのことは おほい河 いく瀬の石の かずもおよばじ」
「二十六日」富士の山を見れば煙もたたず、むかし父の朝臣につれられて、富士のけぶりの末も朝夕たしかに見えしものをいつの年よりか絶えし、と問えばさだかにこたふる人だになし。
「二十七日」伊豆の国府といふ所にとどまる、みしまの明神へ参るとてよみて奉る。「尋ねきて わが越えかかる 箱根路を 山のかひある しるべとぞ思う」
「二十八日」伊豆の国府を出でて箱根路にかかる、いまだ夜深かりければ、あしがら山は道遠しとて箱根路にかかるなりけり。いとさかしき山をくだる、人の足もとどまりがたし、又ふもとに早川といふ河ありまことにはやし。「あづまじの 湯坂を越えて 見わたせば しほ木ながるる 早川のみづ」湯坂より浦にいでて伊豆の大島までみわたせるうみづらを、あまの家のみぞある。こよひは酒匂というところにとどまる。あすは鎌倉へ入るべしというなり。
「二十九日」酒匂を出でてはまぢをはるばるといく、明けはなるる海づらをいとほそき月いでたり。「浦路ゆく こころぼそさを なみまより いでてしらする ありあけの月」あづまにて住むところは、月影の谷とぞいふなる浦ちかき山もとにて風いとあらし、山でらのかたはらなれば、のどかにて、なみの音、松の風たえず。
「今日は十六日」 ほどなく逢坂の関こゆるほどに、「さだめなき 命は知らぬ たびなれど またあふ坂と たのめてぞゆく」
「二十日」尾張の国熱田の宮奉るうた「いのるぞよ 我がおもうこと なるみがた かたひくしほも 神のまにまに」「はるばると 二村山を ゆき過ぎて なほすえたどる 野べのゆふやみ」
「二十四日」ひるになりてさやの中山こゆ、紅葉いとさかりにおもしろし、「こえくらす ふもとの里の ゆふやみに まつかぜおくる さやの中山」
「二十五日」菊川を出でてけふは大井河という河をわたる。「思ひいづる みやこのことは おほい河 いく瀬の石の かずもおよばじ」
「二十六日」富士の山を見れば煙もたたず、むかし父の朝臣につれられて、富士のけぶりの末も朝夕たしかに見えしものをいつの年よりか絶えし、と問えばさだかにこたふる人だになし。
「二十七日」伊豆の国府といふ所にとどまる、みしまの明神へ参るとてよみて奉る。「尋ねきて わが越えかかる 箱根路を 山のかひある しるべとぞ思う」
「二十八日」伊豆の国府を出でて箱根路にかかる、いまだ夜深かりければ、あしがら山は道遠しとて箱根路にかかるなりけり。いとさかしき山をくだる、人の足もとどまりがたし、又ふもとに早川といふ河ありまことにはやし。「あづまじの 湯坂を越えて 見わたせば しほ木ながるる 早川のみづ」湯坂より浦にいでて伊豆の大島までみわたせるうみづらを、あまの家のみぞある。こよひは酒匂というところにとどまる。あすは鎌倉へ入るべしというなり。
「二十九日」酒匂を出でてはまぢをはるばるといく、明けはなるる海づらをいとほそき月いでたり。「浦路ゆく こころぼそさを なみまより いでてしらする ありあけの月」あづまにて住むところは、月影の谷とぞいふなる浦ちかき山もとにて風いとあらし、山でらのかたはらなれば、のどかにて、なみの音、松の風たえず。
浄光明寺境内令泉為相墓
「浄光明寺境内令泉為相墓」は浄光明寺の後の丘陵に有り、為相は永仁三年(1295)鎌倉に下り鎌倉歌壇の指導者として活躍し嘉暦三年(1328)鎌倉にて亡くなっています。鎌倉時代後期に為家の子が家領の相続をめぐり争い嫡流の「二条家」・庶流の「京極家」と「令泉家」の三家に分かれた。二条家・京極家の家系は南北朝時代までに断絶し令泉家のみ残り末裔(上令泉家)が京都にて「(財)令泉家時雨亭文庫」を維持管理している。
浄光明寺略年表に明治元年(1868)千手観音像、敷地絵図、十六夜日記等が紛失とあり、平成十二年(2000)敷地絵図が寺に戻る。十六夜日記等は何処へ大変気になります。
浄光明寺略年表に明治元年(1868)千手観音像、敷地絵図、十六夜日記等が紛失とあり、平成十二年(2000)敷地絵図が寺に戻る。十六夜日記等は何処へ大変気になります。