鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第44号(2010年9月17日)

歩き疲れたら・・・(2)

赤橋登子

店内風景

店内風景

鎌倉時代から南北朝にかけて生きた女性、室町幕府初代将軍足利尊氏の正室。北条氏一族では得宗家に次ぐ高い家格を有した赤橋家の出身、兄は鎌倉幕府最後の十六代執権北条守時公、州崎まで出撃して壮絶な戦いをして最後は自害した。息子に室町幕府二代将軍「足利義詮」、初代鎌倉公方「足利基氏」を産んでいた。

南北朝の内乱は足利尊氏の子二代将軍「義詮」・孫の「義満」が三代将軍につくころから終息に向った。義満は京都室町に「花の御所」といわれる邸宅をつくり、そこで政治をおこなったので室町幕府とよばれた。朝廷側がもっていた権限もほとんど幕府に吸収された。有力守護大名も幕府にしたがうようになったので、足利氏による全国的な支配がほぼ完成した。

鎌倉府 (鎌倉公方)

室町幕府は京都に幕府を開いたため鎌倉に鎌倉府をおき東国を統制した。鎌倉府の職制は幕府の機構をまねたもので、鎌倉府の長である鎌倉公方には尊氏の子「基氏」を任じ、鎌倉公方を補佐する「関東管領」には足利氏一門の上杉氏が任じられた。幕府の地方統治機関であったが、鎌倉公方は大きな権限をもち東国は独立性が強かったこともあって、将軍としばしば対立した。

三代将軍足利義満は将軍の権威を高めるために守護どおしの対立や一族の内紛を利用して、有力守護の勢力を弱体化させようとした。明徳二年(1391)には山名氏清を滅ぼし(明徳の乱)。応永六年(1399)には大内義弘を討った(応永の乱)。

六代将軍義教も有力守護のほか公家や僧侶にも弾圧加えた。以前から独立性が強く将軍と対立していた四代鎌倉公方「足利持氏」に対して永享十年(1438) に追討軍をおくり翌年永享十一年(1439)二月十日に「永安寺」を攻め自害させた(永享の乱)。その後、持氏の嫡子義久も二月二十八日「報国寺」にて自害した。

文安四年(1447) 持氏の四男成氏が幕府から鎌倉公方就任を許され、就任から七年後成氏は関東管領の上杉憲忠を鎌倉公方の御所に招いて謀殺した。そのため成氏軍と上杉軍の間で戦いがおこった(享徳の乱)。幕府は成氏討伐のため、今川範忠軍を鎌倉に向わせ敗北した成氏は下総古河(茨城県古河市)に本拠を移し、初代古河公方となり戦国時代の幕開けとなった。 

路地の突き当たりに古民家風

北鎌倉駅より街道沿いに東慶寺方向へ路地入口に小さな一枚の看板に「kissa minka」路地の突き当たりに古民家風な喫茶店がある。棚には鎌倉文士の本が、歩き疲れたらコーヒーをいただきながら一休みおすすめです。