鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第53号(2010年10月23日)

二代鎌倉公方 足利氏満

福源山 明月院

初代足利基氏が早くして没した為、子の氏満(金王丸)が九歳で鎌倉公方となった。翌年、正平二十三年五月(1368)関東管領の上杉憲顕(山内)が没した。その為上杉能憲(宅間)と上杉朝房(犬懸)の二人が関東管領となった。

康暦二年(1380)鎌倉公方「足利氏満」が、関東管領「上杉憲方」(山内)に禅興寺の中興を命じた。上杉憲方は寺域を拡大し、支院を配置させた。関東十刹の一位となったが、その後、明治初年廃寺となり、「明月院」だけが残ったと言われています。
明月院やぐらは鎌倉に現存する「やぐら」の中で最も大きい。壇上に釈迦如来、多宝如来が浮き彫りに、壇上部には十六羅漢像の浮き彫りもある。関東管領の上杉憲方(山内)の墓所と伝えられている。

開山堂

 参道はブルー一色に染まり紫陽花寺として多くの人が訪れる

永安寺址 史跡碑

碑文

[永安寺は二階堂谷にあり 鎌倉公方「足利氏満」の開基にして 開山は曇芳和尚なり 足利氏満応永五年(1398)十一月四日卒す 法号を永安寺壁山全公と称す] 鎌倉公方氏満は永安寺に葬られたのでしょうか。

永安寺址の史跡碑は現在瑞泉寺総門西側、個人の庭に建っている為、自由に入れません。