鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第70号(2011年3月8日)

初春・由比ヶ浜から七里ケ浜を歩く

由比ケ浜

鎌倉時代には「前浜」と呼ばれ、武芸の修練場とされていた。源頼朝公が伊豆、箱根の神社へ参拝するときには、この由比ヶ浜の海で身を清めたともいわれる。

明治十三年(1880)ドイツ人の医学者ベルツが、保養地として賞賛し、また医学者の長与専斎が、「海水浴場の最適地」と称したこともあって海水浴場として知られるようになった。

昭和三十一年(1956)湘南有料道路(134号線)の開通により、現在の姿になった。水中花火が名物の鎌倉の夏の風物詩「鎌倉花火大会」もこの海岸を中心に開催されている。

七里ケ浜

稲村ケ埼から腰越・小動岬(こゆるぎみさき)までの約2.9キロメートルの海岸。

江戸時代には富士山を望む景勝地としておおくの浮世絵に描かれた。また、鎌倉で刀や包丁などの鍛冶が盛んになったのは、砂鉄を含んだこの浜の砂を利用できたからだともいわれる。

明治四十三年(1910)に逗子開成中学の生徒ら十二人が七里ケ浜沖合で遭難死した海難事故があり、慰霊、追悼のために生まれた歌「七里ケ浜の哀歌」によっても世に知られるようになった。

海岸はすぐに水深が深くなり海水浴には向かないが、近年は季節を問わず若者たちがサーフィンを楽しんでいる。

天然ワカメの天日干し

鎌倉天然ワカメの天日干し、一本一本ていねいに干すようです。一昼夜を浜で干し、その後もござのうえで干す。「完全手作業」

シラスの解禁はあと数日後になるようです。いずれも鎌倉ブランドでしょうか。

小動神社(腰越)

昔、「こゆるぎの松」という、風もないのに揺れる美しい松の木があったことから、小動埼という名前が付いたようです。

元弘三年(1333)新田義貞は鎌倉攻めのさいに戦勝祈願し、後に社殿を再興した。明治の神仏分離で小動神社と改称し、明治六年(1873)腰越区の鎮守としはて村社に列格された。七月の天王祭は、江ノ島八坂神社神輿との行合祭も行う大がかりなもの。「鎌倉検定公式テキストブック」より