鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第73号(2011年4月8日)

極楽寺開基 北条重時公

十三世紀中頃深澤の里に正永和尚が建てた極楽寺が、和尚亡き後次第にに衰え、荒れるままになっていました。

正元元年(1259)北条重時公は寺院の再建を思い立ちましたが、寺域が狭小なため良観律師(忍性)にはかられました。すると、鎌倉西南の地獄谷と呼ばれる土地こそ、三方山に囲まれ南が開いた仏法興隆にふさわしいとして選ばれ、重時公はここを極楽寺再建の地と定めました。

すぐ建立に着手したものの、重時公は完成を見ずに亡くなりました。しかし、その子長時・業時公が父の遺志をつぎ、当時、多宝寺(現在妙傳寺)に入山していた忍性を招いて、重時公を開基、忍性を開山として、ここに極楽寺が誕生しました。

重時公(1198~1261)は北条義時公の三男、泰時公の弟にあたります。三十三歳で六波羅探題として京都を守護し、手腕をふるうとともに公家との交わりから中央文化を身につけ、藤原定家卿とも親交があり歌人としても名声を博しました。

年ごとにみつつふる木のさくら花
         わが世の後は誰か惜しまむ (新勅撰和歌集)

宝治元年(1247)宝治合戦の後鎌倉に戻り五代執権時頼公の連署となり事毎にこれを補佐し、北条一門の長老として活躍しました。