トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第153号 


▲KIさんトップへ戻る

KIさんの鎌倉リポート No.153(2009年4月13日)


No.152
No.154



陽春,鎌倉の祖を偲ぶ 〜源頼朝公墓前祭



【源頼朝墓前祭の準備をする鶴岡八幡宮の神職達】

お久しぶりです。KIです。

去る4月13日の月曜日,源頼朝公の墓前祭に参列しました。
 鶴岡八幡宮東側の鳥居から歩くこと7,8分で頼朝公のお墓に至ります(雪ノ下3丁目)。すぐそばには,かつて頼朝が政をとったといわれる大蔵幕府跡(現,清泉小学校付近)があり,お墓の小高い丘からは幕府跡を含む一帯が見渡せます。
 当日は晴天,午前10時前にお墓の下にある白旗神社前に到着しました。墓前祭を執り行うのは鶴岡八幡宮の神職さん。校歌を斉唱する子供達の声が届く境内では,白い浄衣姿の神職さんがいろいろと準備を進めていました。
 

そして,墓前祭は午前10時半に始まりました。以下に墓前祭の写真を3枚。



【源頼朝墓前祭。祭主による祝詞奏上】


【頼朝公の墓前に供えられた神饌】




【午前11時,墓前祭を終えた神職達が石段を降りてきます】

さて,墓前祭の始終をご報告。
ふだんはひっそり静かな頼朝公の墓前ですが,この日ばかりは大勢の人々が集いました。

島津家の方々,頼朝会の役員さん,観光協会や地元名士のお歴々,地元マスコミ,カメラマンなどなど・・・

広場だけではおさまりきらずとうとう石段にまで,時間がたつにつれ,数を増す見物人が見守る中,頼朝公の偉業を讃え奉り加護を祈願する祭事が執り行われました。生前には中世武家政権とともに新たな時代を確立し,日本の国を導いた源頼朝命(みなもとのよりとものみこと),死してなお神としてこの鎌倉から日本全国を見守ってくださいよ,と祭主が祝詞を奏上します。
 ところで,頼朝公のお墓は高さ3メートルほどの石塔。現在見られるこの石塔は江戸時代後期に薩摩藩主,島津重豪が建てたものだそうです。島津家と頼朝公のご縁は12世紀末にまで遡ります。薩摩島津家の初代当主,島津忠久が実は頼朝公の庶子だったという故事(※1)に基づいて,今なお島津家は頼朝公を祖とし,毎年の墓前祭に参列しているというわけです。
 神職一同が礼拝を終え,参列者の玉串奉納が始まるころにはさらに見物する人々の数が増えていました。自分は玉串奉納が始まる前に抜け道から退散し石段の下へ。
 30分ほどの頼朝公墓前祭。途中,救急車の音が祝詞の声をさえぎることもありましたが,祭事はおおむね厳粛に進められました。鬱蒼とした樹叢の下,2009年の墓前祭は無事終了いたしました。

源氏山の頼朝公

墓前祭の後,近くでで昼食をとりました。そして,春一番に花散らす若宮大路を後にして,源氏山へと向かいました。見ごろを終えたソメイヨシノの葉桜が目立つ市街とは違って,こちらはちょうど八重桜が見ごろを迎えていました。

いっそう華やぐ源氏山に鎮座する頼朝公

・・・と言いたいところですが,近くで見ると,有志による建立からすでに30年近く経った頼朝公の銅像は,風雨等のためにかなり傷んでいます。その状況は下の写真からもわかるのではないでしょうか。
 とはいえ,やはり頼朝像は源氏山のシンボル。頼朝公が見守る芝生の広場では,多くの人がシートを広げて弁当を食していました。八重桜と頼朝像の写真を3枚,以下にご覧ください。



【源氏山。花の囲まれた頼朝公の銅像】



【頼朝公の銅像。八重桜とともに後ろから】


【頼朝公の銅像。八重桜とともに横から】

1980年に,頼朝公の鎌倉入り800年を記念して建立されたこの銅像。陽春の源氏山から,鶴岡八幡宮よりも高い位置から,長谷の大仏様よりも高い位置から鎌倉市を見渡しています。

この人がいなければ今の鎌倉はなかったはず

古都鎌倉だけじゃない。この人がいなければ今の日本もあったかどうか・・・
 いわゆる源平の争乱の時代は朝廷を中心とした国家支配がどうしようもないほどに行き詰まり麻痺していた時代。個人的にはこの平安時代末期は日本国が崩壊の危機に瀕した時期だったのではと思っています。源頼朝公による鎌倉武家政権の確立やそれに続く武家政権主導による国家運営がなければ中世後期以降の日本の歴史はかなり危ういものになっていたでしょう。 
 源頼朝の経歴なり業績なりは日本史の教科書やウィキペディアなどに詳しく載っているでしょうから,以下には頼朝公が鎌倉と日本に果たした意義をそれぞれまとめましょう。

(鎌倉にとっては開都の祖)
・ごくありふれた坂東の一郡にすぎなかった鎌倉(可麻久良)を頼朝公が武家政権の都と定めたおかげで,その後の歴史では鎌倉は特別な都市としておおむね認識され続け,現在の宗教観光都市「古都鎌倉」に至っている。

(日本にとっては国難を救った英主)
・国を統率する力を失った平安京朝廷に代わる鎌倉武家政権という新たな支配勢力を準備し,中世日本がその後も国家として存続・発展していく礎を築いた。

こうやって考えてみると,源頼朝という人(※2)は,大仏様よりも八幡様よりも高い場所に銅像を建ててもらえるくらい,鎌倉にとっても日本の国にとっても大恩のある人だったと思うのですが,いかがでしょうか?



(注釈)
※1;薩摩の島津家は実は平安時代の宮廷貴族,惟宗氏の子孫である。
※2;その後大きく展開した新時代を切り開いたという点では,世界史上の秦始皇帝やローマ皇帝アウグストゥス,イスラム世界の祖ムハンマッドなどと比肩する人物(キーパーソン)かもしれないですね。

(作成データ)
・源頼朝公墓前祭の写真及び祭事の内容に関する記述は承諾を得た上で掲載しております。
・写真&文章;KI
・鎌倉訪問日;2009年4月13日
・2009年4月27日リリース


No.152
No.154