トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第58号 


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KIさんの鎌倉リポート No.58(2007年8月9日)


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いざ,鎌倉!(その2)〜高崎から所沢へ



信州塩田から鎌倉までの鎌倉街道の推定経路(灰色の線)と本レポート第58号の行程(赤色の線)

ご無沙汰しております。
今はもう8月8日。今回はいざ,鎌倉!シリーズの第2回なんですが,第1回を執筆してから20日以上も経ってしまっていますね(笑)
 新田軍の鎌倉攻略の危機に接して,領地の信州塩田から鎌倉へとはるばる馳せ参じた北条国時・俊時の父子。前回は彼らの足跡をたどりつつ鎌倉街道を塩田から高崎までを紹介しました。今回はその続編ということで,やはり国時・俊時父子の足跡をたどりながら高崎から所沢までを紹介します。

さて,今は昔,1ヶ月以上も前の7月2日の早朝。自分は高崎のホテルで目を覚ましました。前日に上田市の別所温泉から碓氷峠を越えた長旅の疲れを高崎の温泉と睡眠で癒した翌朝,再び温泉で眠気を覚ます,のんびり屋さんの自分がいました(^^;)
 一方,お次はもっともっと今は昔,674年前のちょうど今くらいの夏の候,バスではなく徒歩で碓氷峠を越えて上州の平野にたどりついた北条国時とその一族郎党達。休む暇も惜しんで,峠越えの疲労もそこそこに馬で南へと駆け抜けて行きました。

明確な史料に欠くものの,彼らが高崎あたりを通ったのは旧暦5月10日ごろ(今の暦で7月初旬)だと考えられます。
 新田義貞が生品明神(群馬県太田市)で挙兵したのが旧暦5月8日。翌日には各地の御家人が加わって20万もの大軍になったと太平記には書かれています。その様子は各地の伝令によって親幕府側の御家人にその日のうちに知らされ,塩田に居る信濃守護,北条国時のもとにも新田軍南下の急報が早々に届いたものと考えられます。

午前9時,高崎市街のホテルを後にして,市の郊外にある山名八幡宮に行きました。鎌倉時代初期に,山名義範が宇佐八幡を勧請したのが始まりだそうです。鎌倉時代の当時,境内のすぐそばを鎌倉街道が通っていたそうですが,今は道の遺構などはありません。当時の鎌倉街道は単なる山道などではなく,軍用あるいは通商道路としてきちんと舗装され雨除けの側溝のような設備もあったというから驚きです。

信濃からやってきた北条国時の一行もこの神社の前を急ぎ駆け抜けたかもしれませんね。鎌倉街道ではないものの,八幡宮周辺の遊歩道「石碑の道」には数百年前の石仏や,7世紀ごろの古墳などがあり,歴史を感じさせてくれます。ただし,里山なのでヘビが出ます(当日,自分も遭遇しました)。


この山名八幡宮を創始した山名義範の父,新田義重(源義重)は奇しくも新田義貞の祖先



八高線はローカル線独特ののんびりとした雰囲気でした(児玉駅にて)
正午にさしかかるころ,高崎を後にしました。自分はここからはJR八高線に乗って南を目指しました。
 鎌倉街道のルートは,高崎の山名を過ぎると,藤岡・児玉を経て群馬県から埼玉県へと入り,寄居・小川さらに埼玉県南部の毛呂山へと通じていたそうです。いずれもJR八高線の駅名にもなっており,どうやら鎌倉街道はだいたい現在の八高線(高崎駅〜毛呂駅)の沿線付近を通っていたようです。

674年前の夏,高崎の山名宿を後にした国時の一行。彼らが向かう同じ鎌倉街道の先には新田義貞率いる大軍が小手指原(埼玉県所沢市)へと向かって進軍していました。

このまま進んでたとえ敵軍に追いついても多勢に負勢・・・

十万を超える新田勢に対して限られた手勢しかいない北条国時としては新田軍より先に鎌倉に入り,各地から馳せ参じている味方と力を合わせて鎌倉へと迫る敵勢に対抗したいところであったでしょう。


1時間半に1本の2両編成のローカル電車が群馬・埼玉の山里を結んでいます。緑深い外の風景を眺めながら昼飯に買った高崎名物「だるま弁当」を食べ,列車に揺られること約1時間で毛呂駅(埼玉県毛呂山町)に到着しました。

鎌倉街道は,毛呂山町の東部に通じていました。JR毛呂駅からバスを乗り継いで,東武東上線の東毛呂駅へ。ここから少し歩いたところに当時の鎌倉街道が現存しています。数百メートルほどの山林の道でしたが,保存状態もよく当時の側溝跡がはっきり残っている場所も(雑木林の中になりますが)あるとのことでした。

また苦林宿の跡や寺院跡が街道のすぐそばにあり,発掘調査で当時の遺品が多く発見されてたそうです。

犬の散歩にジョギング

かつて鎧武者が駆け抜けただろう街道跡は,今は地元の人々の遊歩道になっています。


毛呂山の鎌倉街道。周辺には史跡や古墳がいっぱい



旧鎌倉街道で出会ったネコ(毛呂山にて)
この毛呂山の鎌倉街道は,狭山そして所沢を経て現在の東京へと通じていました。

午後3時,東毛呂駅。

東武東上線とJR線を乗り継いで所沢駅まで来たのは午後4時を回るころでした。所沢駅から南へ向かう道路沿いに旧鎌倉街道の標識が見られます。

ここまで来ると,もう東京は目と鼻の先。山を越えると東京の東村山市に入ります。小手指原・久米川・分倍河原といった新田義貞と幕府軍が干戈を交えた古戦場もすぐ近くです。








所沢市の旧鎌倉街道にて
高崎から所沢までは約100キロメートル。

休むことなく,馬であれば1日で駆け抜けることができる距離です。北条国時の一行が旧暦5月10日前後に高崎に到達していたとすれば,5月11日くらいには現在の所沢付近に達していたのではないでしょうか。
 気になる新田義貞の軍勢ですが,5月11日に小手指原で幕府軍との最初の戦いに勝利し翌12日には少し南下した久米川での戦いでも幕府軍を撃破しました。
 敗れた幕府側は,5月12日に各地から馳せ参じた新手の軍勢を加えて府中方面に進軍します。そして5月14日,新田軍と幕府軍は分倍河原で衝突します(第一次分倍河原の戦い)。

太平記によると,この第一次分倍河原の戦いの幕府軍の中には,北条国時と一族郎党がすでに加わっていたことが記されており,国時一行は遅くとも5月12日には鎌倉に到着していたことがわかります。

日程から見て,新田義貞が小手指原・久米川で幕府側の前衛軍と戦っている間に,鎌倉へ先回りした可能性が高いですね。

当時,国分寺・府中を過ぎれば鎌倉幕府側の防衛ライン内でした。鎌倉に着く前に新田軍に殲滅される恐れもなくなり,あとはいち早く鎌倉を目指すのみ。

いざ,鎌倉!!

来たるべき決戦の時を前に,北条国時と一族郎党は決死の思いで鎌倉へと歩を進めたのでしょうね。

午後5時をまわる頃,所沢から自宅のある小金井市へと帰途に着きました。考えてみればウチからさほど遠くないところにかつて鎌倉街道が南北に走っていたわけですね。

次回はいよいよ新田義貞率いる討幕軍と北条国時が属する鎌倉幕府軍の戦いの経過を追いながら,鎌倉街道を所沢から終点,鎌倉までを紹介したいと思います。

                          2007年8月8日 K.I.



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