トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第59号 


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KIさんの鎌倉リポート No.59(2007年8月21日)


No.58
No.60



いざ,鎌倉!(その3)〜東京国分寺から横浜泉区(旧鎌倉郡)へ

旧暦1333年5月11日(新暦7月初旬),小手指原(こてさしがはら;埼玉県所沢市)で新田義貞が率いる倒幕軍と鎌倉幕府軍の最初の軍事衝突が起きました。

新田義貞はこの戦いで,桜田貞国と金沢貞将が率いる幕府軍を撃破し,さらに翌12日,久米川の戦い(東村山市)でも幕府軍に勝利して国分寺府中へと南進しました。
 幕府側は二度の緒戦に破れ,とうとう新田軍に軍事上の防衛ラインを突破されてしまいました。

7月下旬から8月上旬にかけて,国分寺市から横浜市泉区まで,炎天下の鎌倉街道を旅しました。

今回は新田軍と幕府軍の戦いの経過をたどりつつ,国分寺・府中・町田・横浜泉の鎌倉街道界隈の様子を写真で紹介したいと思います。



信州塩田から鎌倉までの鎌倉街道の推定経路(灰色の線)と本レポート第59号の行程(赤色の線)




東京国分寺市の鎌倉街道付近にて(7月28日撮影)。街道が残る国分寺界隈には国分寺をはじめ大小の寺社が点在します
匕首を突きつけられた幕府は直ちに各地からの増援兵と残存部隊を再編成して鎌倉街道を北へと下らせました(旧暦5月12日)。
 この軍中には,信濃よりはるばる馳せ参じた北条国時(塩田入道)とその息子達,郎党が加わっていました。
 おそらくは3日足らずで鎌倉へと駆けつけたのでしょう。北条泰家率いる10万の軍勢とともに今度は来た道をたどって行きます。鎌倉から今の町田市あたりを通って府中を目指しての行軍です。

5月15日,2日の休息をとった新田義貞の軍勢は鎌倉街道を再び南下,国分寺(武蔵国分寺)付近を経て府中へと進軍しました。そして,分倍河原(府中市)で幕府軍と衝突しました(第1次分倍河原の戦い)。
 この最初の大規模な戦いは,信濃の北条国時をはじめ幕府への忠誠心が強い親族・御家人からなる増援軍を得て士気が高まっていたこともあって鎌倉幕府側が勝利しました。
 新田軍は散々に崩れて堀兼あたり(埼玉県狭山市)にまで逃げ延びました。

今はひっそりとした佇まいの国分寺の鎌倉街道付近は,敗走する武者たちの血なまぐさい喧騒と怒号が飛び交っていたのでしょうね。8世紀に建立された武蔵国分寺もその時に一度焼失してしまったそうです。


太平記によれば,このときに幕府側は総大将の新田義貞を討ち取るチャンスがあったのに,「自分たちが手を下さなくても地元の武士が討ち取ってくれるだろう」と放置したため,三浦一族の援軍を得た新田義貞の奇襲反撃に遭って,幕府軍は大敗。幕府軍総大将の北条泰家は命からがら鎌倉に逃げ延びました(5月16日,第2次分倍河原の戦い)。

ツメの甘さが招いた逆転劇といったところでしょうか。
 話は分倍河原の戦いのころよりさらに150年さかのぼりますが,平清盛が当時少年だった源頼朝を助命したせいで,後に成人した頼朝の逆襲そして平家滅亡の憂き目へとつながっていきました。それと同様,敗走する新田義貞にとどめを刺さなかった北条得宗家の滅亡がここである程度確定したともいえるかもしれないですね。
 
太平記には全く記録はないのですが,このとき北条国時はどう考えていたのかなと個人的には気になるところです。信州塩田での業績からみれば聡明な名君だったと思しきこの御人。しかも出陣に際して形見に自分の似姿を木彫りにするほどの念入りな性格を考えれば,第1次分倍河原の勝利に酔いしれることなく新田義貞を殺すまで安心できないと主張し,あるいは沸き返る陣営を尻目にわずかな手勢で新田義貞を追撃したけれど討ち損ねていたのかもしれないですね。


JR分倍河原駅前の新田義貞像(7月28日撮影)。第2次分倍河原の戦いでの勝利によってその後の趨勢がおおむね決定した



町田市七国山の鎌倉井戸と鎌倉街道(8月5日撮影)。分倍河原で勝利した新田軍はここの水で渇きを癒したと伝えられています
ともあれ,義貞は殺されることなく翌朝には反撃して幕府の大軍を蹴散らしたというのがまぎれもない史実なのです。

せっかくの勝利を一夜で無にしてしまうとは無念・・・かくなる上は鎌倉にて決戦あるのみ

敗走する際に北条国時がそうつぶやいたかどうかわかりませんが,後悔先に立たず。幕府側の誰もが悔しさを噛み締めながら南へと鎌倉へと撤退していったのではないでしょうか。
 ちなみに第2次分倍河原での幕府軍の敗因には,足利高氏らによる六波羅探題滅亡の報せによる士気の低下もまた大きな原因のひとつだったと云われていますね。

5月16日,幕府軍は府中を後にして町田を経て鎌倉へと至り,新田軍もそれを追うように町田の地を駆け抜けていたのでしょう。
 町田市の七国山には新田義貞の軍勢が水分補給したとう井戸跡が復元されています。

かつて武者たちが闊歩した町田の鎌倉街道ですが,今は市の主要道路として舗装整備され(位置も当時とは若干ズレています),たくさんの車やバスが行き交っています。

現代の鎌倉街道沿いには,薬師堂や古代ハスが咲き乱れるハス田,井出の沢古戦場碑のある菅原神社境内などがかすかに歴史を感じさせています。



町田市の鎌倉街道沿いにあるハス田にて(8月5日撮影)



菅原神社境内にて(8月5日撮影)。今年はセミの当たり年ですね,それにしてもこの体勢でどうやって羽化したんでしょう(笑)
車の喧騒の中,鎌倉街道をバスで南に5分ほどのところに菅原神社があります。その名のとおり菅原道真を祭る神社で,地元では比較的大きな主要な神社です。

木々から降り注ぐ蝉時雨の中,参道を進み石階段を上って本殿へと至ります。先に述べたとおり境内には井出の沢古戦場の碑があります。

鎌倉幕府滅亡の2年後,北条高時の遺児,北条時行が幕府復活を目指して潜伏先の信濃から鎌倉へと攻め上りました。時行は,新田義貞が北条軍を破った分倍河原で今度は足利直義の軍勢を撃破,体勢を立て直して迎撃する足利直義を再び破った井出の沢の戦いが行われたのがこの菅原神社付近です。

足利直義を追い出して鎌倉を占領し,父高時をはじめ北条一族の無念を一度は晴らした北条時行でしたが,わずか20日で今度は足利尊氏に追い出されてしまいました。

町田を後にした自分は,小田急線と横浜市地下鉄を乗り継いで横浜市泉区に来ました。かつてこのあたりは飯田と呼ばれ,鎌倉郡に属していました。
 そのためか,鎌倉景政をまつる御霊神社が区内にあります。そう,鳥居のすぐ前を江ノ電が走り抜ける,長谷の御霊神社と同じ系統の神社です。ちなみに泉区の御霊神社の鳥居のすぐ前は宅地の車道です。
 ここまで来れば,古都鎌倉は目と鼻の先。藤沢市の東端を経由して鎌倉市の深沢・梶原あたりへと至ります。
 新田義貞も泉区の少し手前の瀬谷というところで鎌倉総攻撃の体勢を整えたといわれます。1333年5月18日,60万にも膨れ上がったという新田軍は藤沢や大船を経て鎌倉を包囲。総攻撃が始まります。

いざ,鎌倉へー!!

次回はいよいよ鎌倉市内へ。決戦の様子を交えながら,ぼんぼり祭りの古都鎌倉をレポートします。

                           2007年8月21日 K.I.

(追伸)
 今号で鎌倉市内まで紹介する予定でしたができませんでした。次号は久々に古都鎌倉を舞台としたレポートになります。


泉区,御霊神社の近くにある庚申塔にて(8月9日撮影)。


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