トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第60号 


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KIさんの鎌倉リポート No.60(2007年8月26日)


No.59
No.61



いざ,鎌倉!(その4)〜夏の宵,古都鎌倉〜

8月9日,鎌倉街道をたどる旅も戸塚・藤沢を経て,ついに鎌倉まで戻ってきました。7月1日に長野県の別所・塩田からスタートして1ヶ月以上,週末や休日だけを利用して北から南へと鎌倉を目指す旅でしたが,いよいよ大詰めです。
 
いざ,鎌倉!シリーズ第4回(最終回)は,新田軍vs幕府軍の鎌倉決戦の様子をたどりながら新盆近づく鎌倉を紹介したいと思います。

・・・と,鎌倉に入る前にひとつ紹介しておきたい場所があります。
それは村岡。藤沢市の内陸に位置する丘陵地帯です。その歴史は古く,西暦900年前後には平良文がここに砦を築いていました。桓武天皇の曾孫で坂東平氏(※1)の祖先です。その跡地の村岡城址は地元の人が憩う公園になっています。また,付近の二伝寺には平良文とその一族の墳墓が昼なお暗い樹叢にひっそりと佇んでいます。
 時代は下って鎌倉時代,この村岡は鎌倉の切通しへと続く鎌倉街道最後の要所でした。新田義貞の大軍もこの地を跋扈し,極楽寺坂・化粧坂・巨福呂坂へと押し寄せていきました。1333年旧暦の5月18日のことでした。

 


坂東平家の祖,平良文の墳墓(8月9日,藤沢市村岡にて)



夕暮れ前の稲村ガ崎に佇んで(8月9日撮影)
藤沢市村岡から坂道を下ってJR東海道線の線路を越え,境川を渡るとそこは鎌倉市。

やったぁ〜,とうとう鎌倉入りです

梶原・湘南深沢を経て長谷大仏のある高徳院を横目に江ノ電の駅へ。そこから目指すは稲村ガ崎。

午後5時,西日射す稲村ガ崎へとやってまいりました(写真参照)。1333年5月21日未明,新田義貞はここから由比ガ浜へ回りこみました。内陸での幕府軍の抵抗はすさまじく,苦戦を強いられた新田軍は海側から鎌倉侵入を試みました。
 内陸で最も激戦だった極楽寺坂。北条国時率いる信濃勢もここで新田軍と戦いました。新田側の先陣を切った部将,大館宗氏は幕府側の猛攻を受けて敗死(5月19日)。さしもの新田義貞も極楽寺坂の突破を断念したのです。
 さて,新田義貞は金の太刀を海神に捧げて干潮の海を渡って由比ガ浜へと上陸しましたが,自分は金\190の電車代を捧げることなく県道134号線を歩いて由比ガ浜に浜降りしましょーねー(笑)。 

風はさほどでもないのに,ちょうど満潮時のせいか次々に大きな波が押し寄せていました。かつて勇将が剣を交え血に赤く染まったという由比ガ浜ですが,今は夕照が光を交えサーファー達をシルエットに染め上げます。

由比ガ浜を守備する鎌倉武士を次々に殲滅した新田の軍勢。陣容を整えて政所のある鶴岡八幡宮方面へと向かおうとした時,幕府側からひとりの騎馬武者が進み出ました。
 その名は,島津四郎時久。得宗家の執事,長崎円喜が一騎当千の猛者としてこの時まで出陣させずにおいたのです。並居る新田側の強豪達の前に,颯爽と雄姿を現した時久でしたが,馬から下りて・・・

なんと,降参したのです!!(爆)

切り札にも寝返られた幕府軍は,士気も落ち寝返りも続出して,さらに劣勢になりました。北の化粧坂・巨福呂坂もついに新田軍に破られて追い詰められていきました。

それにしても島津時久,根っからの現実主義者ですねぇ・・・


波立ちゅる由比ガ浜・・・(8月9日撮影)



午後6時ごろ,ぼんぼりの点灯が始まりました(8月9日,鶴岡八幡宮にて)
さて,その後,新田の本隊は,総崩れに崩れゆく幕府軍を追って小町あたりへと向かいました。1333年旧の5月21日午後のことでした。
 2007年8月9日の鎌倉,午後5時半,自分もまた由比ガ浜から若宮大路を上って鶴岡八幡宮へと向かいましょう。午後6時,鶴岡八幡宮。この日はぼんぼり祭りの最終日。参道沿いに立ち並ぶぼんぼりに次々に火が灯されていきました。平日にもかかわらず,夏の夕暮れに淡い光を放つぼんぼりを一目見ようとたくさんの人々が訪れていました。
 
 執権,赤橋守時殿も巨福呂坂で見事,討死なされ,わが祖父の地,極楽寺も敵の手に落ちようとしている。いざ,大師のもとへ

新田の先陣を一度は撃退するほどの奮戦もむなしく,北条国時率いる信濃勢は極楽寺坂を後にして北条高時がいる東勝寺へ向かいました。

もはやこれまでと覚悟を決めた最後の戦いでした。

そして運命の5月22日。北条国時以下,息子の俊時と家臣郎党が東勝寺の一郭で最後を迎えたのはレポートNo.55号で述べた通りです。
 太平記10巻にある「塩田父子自害のこと」の項を一部抜粋します。

「(前略)民部大輔 俊時,親の自害を勧めんと腹掻切って目前に臥たりけるを見給ひて(中略)落る泪も留まらず,先立ぬる子息の菩提をも祈り(中略)読誦し給ひけり」

北条国時は,「御経誦終る程防矢せよ」と部下達に命じて,息子俊時の屍を前に読経し終えた後に自分もまた自害するつもりでしたが,不忠な家臣,狩野重光(※2)が私利私欲で,既に防ぎ矢の兵達は全員討たれて敵が目前に迫っていると偽ったため,国時は読経半ばにして「無念」と言い残して自害して果てました。


明かりの語らい(鶴岡八幡宮ぼんぼり祭り)



「稲村ガ崎は 古戦場・・・」
いざ鎌倉シリーズの最後を締めくくるのにふさわしいぼんぼりですね〜

立秋も過ぎた夜,鶴岡八幡宮の境内をぼんぼりがほんのりと光を放ちます。

ひとつ,またひとつ・・・

お盆を前にし,幻想的に闇に揺らめくぼんぼりの灯し絵は,古今を問わずこの鎌倉の地で亡くなった先人達への迎え火のようにもみえます。

7月の七夕祭のときにも感じたことですが,この古都鎌倉での祭事は今を生きる人だけでなく昔に亡くなった人々のためのものでもあるようにやはり思えてきます。

古都鎌倉の祭事あるいは古都鎌倉そのものが,今を生きる人々と過去に亡くなった先人達を結ぶ‘よすが’なのかもしれませんね。

8月15日,残暑厳しい中,信州塩田もお盆を迎えます。

山深い塩田の寺院仏閣。

カブトムシ,クワガタムシ,カミキリムシ・・・

よくよく目を凝らせば,里山ならではの夏の主役達が境内のそこいらに結構姿をあらわしています。
 塩田の城跡には,鎌倉の東勝寺で生涯を閉じた北条国時の墓があります。詳しい経緯は知りませんが,北条氏ゆかりの武士がその遺骨を信濃の地に移したのでしょうか。

4回にわたって綴った,このいざ鎌倉シリーズもこれにて終了です。1ヶ月以上にわたって,塩田北条氏が眠る信州塩田の山里から彼らの宗本家が眠る観光古都,鎌倉へと鎌倉街道上道を旅しました。

塩田北条氏一族の菩提は,塩田の龍光院で今も静かに弔われています。

                      2007年8月26日 K.I.

(追伸&註釈)
今,旧盆の沖縄よりこれを書いています。あ〜,やっと終わったさぁ〜(笑)って感じですね。仕事が忙しくなかなか執筆が進みませんでしたが,やっ完結しました。今まで長々とお付き合いくださってありがとうございました。自分もこれで沖縄の旧盆エイサーを心置きなく堪能することができます(笑)。

※1.坂東八平氏とも。三浦氏、千葉氏、秩父氏、鎌倉氏、大掾氏及びこれらの諸氏から派生した  中村氏、梶原氏、長尾氏(分類は諸説あり)。いずれも平良文(886〜953年)の子孫。
※2.長年,塩田北条氏に仕えてきた家臣。自害した国時・俊時父子の財宝を奪って逃亡を図るが  新田側の部将の知るところとなり不忠の臣として斬首された。


信州塩田,緑陰の中禅寺にて


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