トップ鎌倉好き集まれ!KIさんトップ 第95号 


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KIさんの鎌倉リポート No.95(2008年6月25日)


No.94
No.96



深緑の今宮例祭 〜中世に想いをはせ鎌倉みちを往く

鶴岡八幡宮の今宮例祭



大臣山の谷戸に佇む今宮


今宮例祭が始まります

皆さん,突然ですが鶴岡八幡宮の「今宮」をご存知でしょうか?
 鶴岡八幡宮には,いつも参拝客で賑わう本殿(上宮)や若宮(下宮)以外にも由比若宮(元八幡)や白旗神社など,境内社ないし境外社が複数存在します。
 今回,紹介する「今宮」は境外社のひとつ。鎌倉時代初期に在位した後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇の三柱の神霊をお祭りしています。鎌倉観光の定番中の定番としてあまりにも有名な鶴岡八幡宮ですが,この今宮を訪れたことがある人は少ないのではないでしょうか。かく言う自分も鎌倉宮の人(?)に教えてもらうまで,その存在すら知りませんでした。今宮は,八幡大神(応神天皇)がおわす本殿の裏手,八幡宮の駐車場を渡って,鶴岡文庫の脇から通じる小さな坂道の突き当たりにあります。

6月7日の午前9時過ぎ,普段はひっそりしているだろう境内は,例祭の準備で慌しくなっていました。神職や巫女の人達がせわしなく往来し,様々な祭道具が備えられていきました。
 そして,準備が終わって午前10時。
 管弦の音色が境内の樹叢にこだましました。坂の中ほどにある宮司邸を出立した神主達が警備員に前後を護られながら祠の御前へ参上します。
 
いよいよ年に一度の今宮例祭が始まります。

【祝詞の奏上】
斎主(いつきぬし)が発する重厚な祝詞の声からは「ゴトバノスメラミコト,ツチミカドノスメラミコト,ジュントクノスメラミコト・・・」と御祭神の三人の天皇の御名が聞き取れました。しばし,祝詞に耳を傾けてみると・・・

‘後鳥羽上皇と順徳上皇は鎌倉幕府打倒の軍を起こしたものの,幕府軍に敗れ,それぞれ隠岐島と佐渡島に流され,土御門上皇も父と弟に順じて自発的に土佐に退いた。その後,御三方ともそれぞれ配流の地で失意のうちに亡くなった’

・・・だいたいこんな内容が古語と独特の節回しでうたわれているようでした。




【続いて,玉串の奉納】
粛々と神事が進められていきます。中学あるいは高校で日本史を習った方ならばもうお気付きでしょう,この今宮は1221年の「承久の乱」ゆかりの祠であるということを。

「今宮はまたの名を新宮といって,上皇方が配流の地で亡くなった後,その御霊をお慰めするために建てられました。」

例祭の前に,鎌倉文庫でそのように教えていただきました。
 源頼朝が鎌倉幕府を樹立して30年余り。日本の国は,朝廷と幕府に二分割支配されている状態が続いていました。このときの朝廷の最高権力者が後鳥羽上皇。長男の土御門天皇,そして次男の順徳天皇を相次いで皇位に据え,自らは院政をしいて朝廷を掌握していました。かつて,律令華やかなりし奈良・平安前期には,天皇の威光と朝廷の支配が日本の隅々にまで及んでいました。往古の栄光に心酔していたといわれる後鳥羽上皇は,日本の支配権を完全に取り戻すべく,1221年5月14日に倒幕の兵を挙げました。
 しかし,上皇の挙兵は朝廷の無力な現状を顧みない無謀な挙兵だったので,挙兵わずか2ヵ月後に朝廷側のあっけない敗北に終わりました。そして,前述のごとく,三上皇の配流となったのです。
 後鳥羽上皇が隠岐で亡くなったのが1239年。父上皇と挙兵を共謀した順徳上皇は1242年に佐渡で断食自決し,土御門上皇は阿波の離宮で1231年に亡くなっています。
 「吾妻鏡」や「新編相模国風土記」などによれば,後鳥羽上皇が亡くなった後,数年にわたって鎌倉で災難が続き,承久の乱での幕府方の武将が次々と変死し,ついに3代執権,北条泰時も病死しました(1242年)。これは上皇の祟りだということになり,1247年に鶴岡八幡宮のはずれに祠を建て,後鳥羽上皇と順徳上皇の御霊をお迎えして,その怒りを解こうとしたとのことです。なお,土御門上皇は明治時代になって合祀されたそうで,鎌倉時代の創建当時,土御門上皇は入っておらず,代わりに順徳上皇の従者が2上皇とともに祭られていたそうです。



撤撰


祠を後にする神職達

【そして,閉式】

「撤撰(てっせん)」
最後に「二礼二拍手一礼」した後,斎主の一声で,御神撰が片付けられ,御神体がおわす祠の扉が閉じられました。
 30分足らずの厳かな神事。見学する人も自分の他は数えるほどしかいませんでした。

「この後すぐ,夕方のほたる祭りの準備なんですよ。いや〜,忙しいです(笑)」

そう言って,若い神職さんは荷物抱えて坂道を走っていきました。




例祭の後,鶴岡文庫で少し休憩し,巨福呂坂を北へキタカマエリアへと向かいます。次なる目的地は長寿寺。そう,最近,ここ「鎌倉好き集まれ」でも話題になっている,晴れた休日限定で庭園を公開している禅寺です。
 自分も他のレポーターさんの記事を見て訪れた次第。

キタカマみちを長寿寺へ



長寿寺の境内で読書


Land Off !!

晴天の庭園は緑まぶしく,座敷から庭を眺める人で賑わっていました。自分も赤い敷物に座して,しばし読書。

これまた,気分が良いものですねぇ〜

観音堂を裏手にまわると,足利尊氏の墓が岩肌に佇んでいます。河内平野で,ヤマト王権の大王(おおきみ)たちの巨大な陵墓を間近に眺めた身には,「これが本当に清和源氏の嫡流で室町幕府初代将軍の墓だろうか」と思うほど小ぶりで質素な石塔でした。
 鎌倉幕府が滅びた後,後醍醐天皇による束の間の王政復古,そして足利尊氏が室町幕府を開いて再び武家政権の世の中に戻すというふうに,わずか数年の間にめまぐるしく政権争奪が展開されますが,後ほど詳しく紹介しましょう。
 そもそも「朝廷」と「天皇」は7世紀後半に登場したものです。それ以前は「大王(おおきみ)」。ヤマト王権の支配者であり,日本列島に割拠する諸王権の連合の首席として倭国全体をまとめる代表者(倭王)を兼ねていました。最近の学説では,「天皇」の称号を始めたのは天武天皇(在位 673-686年)だろうとされています。古代最大の内乱といわれた壬申の乱(672年)を勝ち抜いた天武天皇は,国号を「倭」から「日本」に改め,律令体制に基づいた統一国家づくりを進めます。そして,「大王」も「天皇」に改めて,全国を直接統治する専制君主と位置づけました。
 中央集権国家「日本」とともに誕生した絶対君主「天皇」はその後,10世紀前半くらいまでは律令体制の頂点で強大な権力を振るう存在として,日本の隅々まで統治しますが,10世紀も半ばを過ぎ律令体制が瓦解すると,その統率力も弱まります。しかし,天皇側も院政の導入など改革を講じて,藤原摂関家や源平など軍事貴族層の台頭,地方豪族の自立化の動きに対抗したので,12世紀末までは,日本の支配者の地位を何とか守り抜きます。
 天武天皇以来の「天皇=日本の唯一絶対支配者」という枠組みを突き崩したのが,鎌倉幕府を立てた源頼朝です。やがて,500年以上続いた天皇家による統治が完全に潰えたのが,1221年の承久の乱のときです。乱後,鎌倉幕府は西日本に残されていた朝廷の統治権をことごとく奪い取ります。そして,鎌倉幕府は晴れて日本の新しい支配者となり,統治機能を失った朝廷は完全に幕府に従属しました。ただ,500年以上(ヤマト王権の大王の時代を含めるならば,おそらく800年以上)も日本の主であり続けた天皇の伝統と権威は無視できなかったのでしょう,支配権は失っても天皇の皇嗣はその後も存続しました。中世後半から,わが国は政権だけが新支配者に移行し,前の支配者の王朝はそのまま存続するという,世界史でも数少ないケースとなったわけです。
 そして,時が流れて鎌倉幕府が日本を支配する力を失うと,天皇家は再び・・・

はい,いい加減ここらで,独りよがりな歴史ウンチクはやめにして,南国からの来客を迎えに鎌倉駅へ向かいましょーねー。

午前11時半,長寿寺で読書にふけっている最中,突然,ケータイに着信しました。沖縄の風が古都鎌倉にまもなく到着する次第。

鎌倉宮




沖縄色の純和服に身を包んだネーネーを伴って,鎌倉駅から八幡宮へ。Sさんにとって,この2月以来の鎌倉。

「前来たときはさ,みんな枯れ木だったのに,今は緑がいっぱいさぁ〜」

「鎌倉は今がちょうど,うりずん(*1)の季節みたく,みずみずシ〜サ〜♪」

ハスの葉が水面を覆い尽くす,池畔の茶房で昼食をとった後,ともに鎌倉宮へと向かいました。ちょうど山アジサイの散策ロードが公開中。神苑(有料区域)には,さまざまな品種の山アジサイがありましたが,時期には少し早かったかも・・・

「育ち始めも小さくてカワイイさぁ〜」

何でも前向きにとらえるSさんでした。そこが島育ちの良い面なのかも。そのpositive-thinkingで頑張ってきた甲斐あって間もなくPh-Dを取得なさいます(ヨイショ ヽ(^-^ヽ)♪)

今後も仕事のパートナーとして,ゆたしくうねげ〜さびら〜 もひとつヨイショ ヽ(^-^ヽ)♪♪

ヨイショついでに,こちら鎌倉宮に祭られている御方も大変エラ〜イ方なのです。

その名をば,大塔宮護良親王

どうエライのかといいますと・・・

鎌倉幕府を倒し,再び朝廷に日本の支配権を取り戻した!

・・・御方なのです。

承久の乱以来,平安京の朝廷は鎌倉幕府の管轄下で細々と雌伏し続けてきました。ところが,13世紀後半の元寇襲来による打撃が原因となって,鎌倉幕府は衰退し,14世紀に入る頃にはもはや日本の国を統率する力を失くします。
 後醍醐天皇とその皇子,大塔宮護良親王(以後,護良親王)はそれぞれ倒幕の勅命を発して,各地での蜂起を促します。特に護良親王は自ら軍勢を率いて幕府軍と戦い,反幕府派の武将が多数,親王に呼応しました。そして,1333年5月22日(新暦の7月6日),ついに鎌倉幕府は戦火の中で滅亡し,朝廷は日本の支配者の座に返り咲きました。
 後鳥羽上皇が敗れてから,ほぼ111年11か月ぶりの復権でした。

「あい,こんなところにヒメアジサイがあるよ〜」

護良親王の土牢から少し歩いたところにアジサイの花小(はなぐゎー)ひとつ。Sさんの勧めで鰹木の社殿をバックに1枚撮ってみます(左上写真)。

「見て,木の陰のティーダ(*2),鎌倉っぽくていいよぉ〜」

大木の木漏れ日を,社殿を脇に小さく入れてもう1枚(右上写真)。

「琉球の歴史でも,悲劇・無念の人物は確かにいるだけどぉ,昔の鎌倉って,じゅんに悲劇の人が多いよねぇ・・・」

先ほど,「護良親王の土牢」と書きましたが,これは親王が閉じ込められていた土牢(ほら穴の牢屋)。倒幕に功績のあった護良親王ですが,その後の新政府(建武政権)のあり方をめぐって,父の後醍醐天皇や軍事貴族の筆頭,足利尊氏と対立するようになり,ついに父天皇の命令で逮捕。鎌倉に護送,幽閉されてしまい,その後,足利直義(尊氏の弟)によって殺害されました(享年28歳)。
 その後まもなく,後醍醐天皇による「建武の新政」がわずか3年で終わり,代わって足利尊氏が2番目の武家政権「室町幕府」を開いたことは,日本史の教科書にも言及されているとおりです。次に天皇が政権の座に就くのはこれより531年後,明治維新まで待たねばなりません。

『由比ガ浜みち』から『極楽寺みち』へ


「どうかぁ〜,海まで歩いてみる?」

「あい!海へ行きましょーねー!」

八幡宮と鎌倉宮では和服姿だったSさんも今はカジュアルスタイル。金沢街道を南西へと宝戒寺前を過ぎ,そして若宮大路を南へまっすぐ下って,由比ヶ浜へ到着しました。
 じっと海を見つめるSさんにひとこと。

「どうかぁ〜? かつて“琉球の鎌倉”と謡われた勝連城か平安座の海中道路でも見えるかぁ〜?」

「見えるわけねーん!!」(x_x) ☆\( ̄ ̄*)バシッ


サーファーにウィンドサーフィン

今は皆が憩う由比ヶ浜も,675年前には兵(つわもの)の血潮に染まったことは,昨年のレポートNo.60「いざ鎌倉(その4)」(2007.8.26)で述べたとおりです。

ぱっと見では全くわからないけれど,今もその当時の戦死者の人骨が砕けた粉末がふつうに砂に混じっているというから驚きです。



由比ヶ浜の砂浜を西へ西へと歩をすすめ,突き当たった所で住宅の路地を内陸へ行くと,簡単に長谷の御霊神社がある界隈に出ることができます。目の前の坂道を上っていくと,ここだけ人が山だかりの成就院。そう,長谷寺と並ぶアジサイの名所です。

たわわに咲き誇るアジサイ越しに正面を見渡せば,西日にきらめく由比ヶ浜の海。

そのままの姿勢で,今度はアジサイ越しに左を見下ろせば,今来た坂道。

そう,極楽寺坂。

ここもまた由比ヶ浜とともに,鎌倉幕府滅亡の戦場となりました。

新田義貞の倒幕軍と,信濃から駆けつけた極楽寺流北条家の後裔,北条国時がきっと相対峙した場所。

いまひとつ,鎌倉幕府滅亡の舞台となった天然の要害,稲村ケ崎へ。

さあ,もうひと歩きしましょーねー。   (完)




(追伸)
このレポート文章についてはSさんの了解を得て書いていること,例祭の写真は鶴岡八幡宮の了解の上で掲載していることを申し添えます。
*1;「うりずん」とは沖縄の陽春の季節。当地の3月〜4月上旬の温暖・湿潤な時節を指し,気候的には本土の5月下旬くらいに相当する。
*2; 「ディーダ」とは沖縄の方言で「太陽」の意味。


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